宝鏡三昧  (神谷湛然 解釈)

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      宝鏡三昧(坐禅とは)

  如是の法 仏祖密に附す。汝今是を得たり。宜しく能く保護すべし。
(如是の教えを真理に目覚めた先達たちは欠けることなく親密い伝えられて来た。あなたたちは今、この如是というものを手にいれた。どうかよく保持し、まもってほしい。)

 銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す。類して斉しからず。混ずるときんば処を知る。
(銀椀と雪、明るい月に飛んでいる白鷺。重なって見分けがつきにくいようなものである。銀椀と雪、明月と鷺。よく似ているがはっきり違う。一緒になったとしても銀椀は瓶椀であり、雪は雪である。明月と鷺も然りである。)

  意言にあらざれば、来機亦たおもむく。動ずればか臼をなし、差えば顧佇に落つ。背触共に非なり。大火聚のごとし。但だ文彩にあらわせば即ち染汚に属す。
(如是というものは言葉で規定できるものではないがゆえに、来る有りように対応していきいきとはたらく。執着してなんとか捕まえようとすると言葉の落とし穴に落ちる。かといって如是というものに向き合わないで無視するのもまたまごつくだけである。無視することも攫もうとするのもともに間違いである。如是というものは、ちょうど、燃え盛るたくさんの大小さまざまの火のあつまった大火のように、転変として捉えどころがなく、触ることすらもできない。その有りようを文字で表現しようとすると、即時に如是という命の真実が汚されてしまう。)

  夜半正明、天暁不露。物のために則となる。用いて諸苦を抜く。有為にあらずと言えども是語なきにあらず。
(夜半という暗のなかに明というものがある。また、天暁という明のなかに不露という暗がある。暗とは参同契にある暗のことである。暗は無差別の有りようのことで、いわゆるものごとの根源お意味し、明とは参同契には分別の有りようのことでいわゆるわれわれの実際に思慮分別して感じている現象の世界のことである。つまり、根源からすべての現象がうまれ、すべての現象は根源にあるということである。これを、ある人は、一心一切法一切法一心と説いた。これが物事の道理である。この道理を用いて諸々の苦しみを抜くことができる。この如是という道理はつくりごとではない無為自然のものでまったく手垢がついていないといっても、死に絶えた枯草のようなものではなく、活發發としていきいきと働いている。)

  宝鏡に臨んで形影相見るがごとし。汝是れ渠にあらず、渠まさに是れ汝。世の嬰児の五相完具するがごとし。不去不来、不起不住。婆婆和和、有句無句。ついに物を得ず、語いまだ正しからざるが故に。
(坐禅という宝鏡に臨んで自分という形と坐禅という宝鏡にうつる影とを互いに見るようなものである。あなたという自分は、鏡にうつる姿ではない。そしてまた、鏡にうつる姿はまさにあなたという自分そのものである。鏡にうつる姿、つまり坐禅という鏡に照らし出された姿即ちあなたという自分の本来の有りよう=如是は、思慮分別にまみれたあなたとはちがうが、本来の有りようこそじつは本来のあなたという自分なのだ。その有りようは去ることもできず来ることもできず、起きることもできずじっとしていることもできず、何かしゃべろうとしても言葉にならず、わーわーあーあーといっている世にいう赤ん坊のようなものだ。これが本来の面目だというものをつかむことはできない。どんな言葉でいっても正しく表せないがために。)
  重離六交、片正回互。畳んで三となり、変じ尽きて五となる。ち草のごとく金剛の杵のごとし。正中妙挟、敲唱双び挙ぐ。宗に通じ途に通ず。挟帯挟路、しゃく然として吉なり。犯ぼすべからず。天真にして妙なり。迷悟に属せず。因縁時節寂然として照著す。細には無間に入り、大には方所を絶す。ごう忽の差、律呂に応ぜず。
(易の離の卦(け)を構成する六つの爻(こう)は、差別を超えた世界=本体である正位と差別の世界=現象である片位が互い違いに積み重なって作られる。下から正正、偏と三つ積み重ねると兌の卦になる。組み合わせを変えると、更に変化して洞山の五位を表わす。つまり、すべては五つの相に分類できるが、根源の具象であり、根源とは一体となっている。それは、ちょうど、すべての味「五味)をもつち草がばらばらになることなく一本のち草としてあるように、金剛力王が手に持つ杵が一本の棒の両先端が無数の枝(五枝)に分かれていながらそれでも一本の杵であるようなものである。根源という真ん中に妙としかいいようのない不思議ささにしっかり絡みとられ、三千大千の無数の歌声がしながらそれでも一体として調和しているようなものである。真実に通じ方便に巧である。如是という真実の道にしっかりはさみこまれ、その道をつつしまやかひ歩むことが大吉であり、その道から踏み外しようがない。はじめから天然として真実であり、不思議としかいいようがない。迷ったとか悟ったとか以前にもう如是という真実にどっぷりつかってしまっている。それは何かのしっかけをもってはっきりとして透明に気づかされることがある。如是という真実は、隙間が全くないものにさえ入り込む微細なものから全宇宙をこえた大きなものまで一切合切に行き渡っている。そこに、毛先ほどのすこしでも自分勝手な思い込みが生じれば調和が乱れて真実から離れてしまう。)

     今頓漸あり。宗趣を立するによって宗趣わかる。即ち是規矩なり。宗通じ趣窮まるも、真常流注、外寂に内揺くは、繋げる駒福セル鼠。先聖これを悲しんで法の檀度となる。その顛倒に従ってしをもって素となす。顛倒想滅すれば肯心自ら許す。

(今、一気に道を得ようとする頓というやり方と一段一段と階段をを上るように道を得ようとするやり方とがある。それぞれの標準のちがいでしかないが、それを、教えを立てることで教えの意がわかったとするのは自分勝手な思い込みでしかない。真というものに執着してかえってふらふらする。表向きは落ち着いてみえるが心の中は揺らいで不安で落ち着かない。柵に繋がれた馬とか物陰に隠れて潜んでいる鼠のようなんものである。祖師方はこれを悲しまれて教えを説かれた。物の見方がひっくり返って黒を白とみる。ひっくり帰った見方がなくなればおのずと自ら納得する。)

  古轍に合わんとすれば、請う前古を観ぜよ。仏道を成ずるになんなんとして十こう樹を観ず。虎の欠けたるがごとく馬のよめのごとし。下劣あるをもって宝几珍御、驚異あるをもって狸奴白狐。
(すぐれた先人たちにならって道を得ようとするするならば、その先人たちがどんなふうに歩んでこられたのか、その跡方をよくみてもらいたい。大通智勝仏は仏道を完成するのに十こうという永遠とも言ってもよい非常に永い時をかけて修行された。仏行とは終わりのない行であり、それが如是ということである。仏の行というものはを獲物を得ることができずあくびをかく虎のように、手で馬を繋ぐように、退屈で歯ごたえがないものである。自分は鈍くて劣っていると思い込んでいる人には、宝や珍玉で飾った立派な福のように光輝く仏をもっていると説き、奇勝や奇跡を求めるような人には、仏とは狸とか狐であると説く。仏=如是は一切に遍満して欠けることがないものであるが、人根に応じて説かれるのである。)

 げいは巧力をもって射て百歩に中つ。箭ぼう相値う、力なんぞ預からん。木人まさに歌い、石女立って舞う。情け識の到るにあらず、むしろ思慮を容れんや。
(げいという弓の名人がいたが、彼は時の皇帝に頼まれてすごい腕前でもって十個の太陽のうち九個を撃ち落として九羽の烏が地上に落下して国は安寧を得たという故事がある。またある名人は百歩離れた所から柳の葉をことごとく射貫いたという。また名人同士が弓を打ち合って、空中弓矢の先どうしがぶつかり合って地に落下したといういわれがある。これらのことは、確かにたゆまぬ鍛錬と並外れた能力があったであろうが、それ以上の計り知れないなにかがあってこそのものである。うまくやろうとせずにただ無心に集中して有りように任せて弓を射たのである。ただ今ここにある有りように身を任せきる、これが如是の行なのだ。如是というものは、木の人形がまさに歌い、石女像が立って舞うような有りようである。思慮分別でもって理解できない。)

  臣は君に奉し、子は父に順ず。順ぜられ馬孝にあら、奉せざれば輔にあらず。
(しかれども、如是という法は、家臣は君主に従い子供は父に従って人生を学ぶように、当たり前のことなのだ。親に順じなければ孝行ではない。君主のために働かなければ輔佐とはいえない。これと同様に当たり前の物事の道理なのだ。)

  潜行密用は愚のごとく魯のごとし。但だ能く相続するを主中の主と名づく。
(見せびらかすことなく、地道に綿密に、愚か者のごとく痴者のごとく、ただただ如是という道を歩み続けることこそが一番大切なのだ。)

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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