7.‘豊かさ’とはなにか  (神谷湛然 記)

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  7.‘豊かさ’とはなにか

 先日4月9日に選挙があった。大阪府知事選と大阪市長選、府議戦、市議選の四つがあって忙しい投票であった。
 どこの党派にしろいづれの候補者も共通していえることは、豊かになりましょう、ということであった。大阪でも、IRカジノに賛成にしろ反対にしろ、ものづくり大阪を元気にと訴えたり、福祉教育にもっと充実をと主張したりしていた。やはり「豊かな社会」を目指していることには代わりはないだろう。長い間関東の横浜に暮らしていた私から今住んでいる大阪を見たとき、さびしい感じがするのはなぜなのだろうか。東京一極集中のなせる罠のせいだろうか。そういう日本でも世界からみれば「衰退しつつある日本」という見立てになっている。‘ジャパン アズ ナンバーワン’は過去の話だとある識者はいう。金まわりがよく科学技術の相対的優位性のあった時代を懐かしんでいるような気がするのだが。強大な軍事力と経済力、それに裏打ちされた高度な科学技術およびその研究。それがアメリカであり中国であろう。先行投資できずに目先に追われて節約コスト化っとに精を出したのが日本ということだろうか。大阪はその最たるものになったのであろうか。こういうふうにして「豊かな社会」を論じていくとき、カネが至上命題になっているように思われる。‘地獄の沙汰も金しだい’というおとである。どうにかカネをひねり出して工面せねばというのが今日の政治家であろうか。ケチな人間は安易な金儲けに走ると損する。私がそうである。一体カネはなぜ必要なのか。生活のためであるという人は多いであろう。問題はその生活の中身である。モノに溢れて足の踏み場もない空間が豊かな生活であろうか。
 私は神社仏閣や広々とした思弁をこのんで出かける。共通しているのは広々とした空間と荘重なたたずまい、心身洗われる清澄さである。私にはそこに心の豊かさを感じるのである。
 去年の夏、妻がテレビで見たとかいうことで奈良興福寺の中にある柳屋茶屋というお茶屋の店に行った。古風な日本家屋の広々とした広間に通された。しーんとした静謐に満ちて人の声もほとんど聞こえなかった。畳の座敷座って注文した抹茶と蕨団子をいただいたのであるが、前の猿沢池から流れるそよ風が開け放たれたガラス戸越しにはいってきて、礼号がないのにとても涼しかった。隣の堰に二人連れがおられたが小声で少し話していただけでほとんど私たち夫婦と同じように静けさを楽しみながら食しているようだった。会話するのが憚れるような静寂さであった。なんらかの音にまみれて生活していることが多いこの時代にあってなかなか味わいにくいものである。東大寺産廃のあと、大仏殿北東にある春日野原地に行った時も同じような感覚にひたった。広い芝生の側で何頭かの鹿が草を食んでいた。夕方ということもあったせいなのか一人の中年の男の人がジョギングしているだけで奈良市内とは思えないほどの静かな趣であった。私たち夫婦はベンチに腰かけながら西の空の夕陽を眺めていたのであった。
 私には心落ち着く静かな様に豊かさを感じるのであるが、ある日妻に豊かな生活とは何かと尋ねたところ、あまり考えたことはないけど、そうやなー、お互いが穏やかで助け合う社会かなといった。そこで私が青年になるまで過ごしたいなかの生活から、寄合とか忍足とかいう村の付き合いがあって、集落のありようからちょっとでも外れるようなことがあったら噂をすぐ立てられたり村八分になるころがあるし、家にはカギがなくて開けっぴろげで外に筒抜けみたいなところがいいのかと聞くと、それはいやと妻はいう。
 石川辰三の「蒼茫」という小説は戦前日本の昭和初期における貧しい農村から夢を求めてブラジルへ渡っていく人々の話である。作者自身が移民船に助監督として乗り込んだ時の経験ベースにしているので生々しく伝わってくる本であった。政府による一種の棄民政策であるが、食べていくことでさえままならぬ貧しさから逃れたいという最下層の虐げられた人々の悲しみに胸痛むばかりであった。同時期に中国東北に満蒙開拓団として渡った人々も同じようなものであったと歴史はいう。戦後の焼け跡からの高度経済成長も同じように経済的物質的豊かさへの追求であったことはいうまでもない。現在日本において日々の食べることに困っている人はきわめて少ない。生活保護制度があって困ってい居る人はそれを利用して生活を最低保障される。物価高や非正規堂々の増加、産業構造の変動などで大変な思いをしている人は多いだろうが、まがりなりにも整備された社会保障制度があり、昔のことを思えばかなり物質的に豊かなはずである。世界では80億人の10%強の8億6千万人が飢餓がに苦しんでいるといわれている。最も深刻なのがアフリカという。内乱や部族対立、政情不安などが影響しているようである。そこから見たら今のところ日本は恵まれているであろう。問題は衣食住が足りたらどうするのかということである。
 「衣食足って礼節を知る」という中国の諺がある。また、「人はパンのにて生きるにあらず」という聖書のことばがある。芥川龍之介は「朱儒の言葉」で「」人はパンのみにて生きるにあらず、されどパンなくして生きるものにもあらず」といっている。農民や労働者運動、社会主義運動が盛んだったとき、目指すはパンという物質的貧困からの解放だった。社会主義運動の衰退はそれなりに実現しえた衣食住の充足がききたからだと私は思う。パンを獲得できたにもかかわらず、心身病んでいる人が多いのはどうしてなのか。前述したように日本では自殺者が年間3万人を超えている。そしてはるかに多くの鬱の病に苦しんでいる。医学的には精神的ストレス、人間関係、乱れた生活リズム、偏った食事、自然との乖離などが指摘されている。ただし、面白いことに、適度なストレスが脳にないと退化して気力を失うという指摘がある。ある動物園で、普段飼育員から餌を与えられているハイエナがフィールドで一頭の死んだイノシシを置いたところ生気に満ちた動きで自分で肉を頭を激しく振りながら食いちぎっていたという話を聞いたことがあった。本性に目覚めたのであろうか。では、人間の本性は何であろうか。
 チップ・ウォルターは「人類史700万年の物語」という本で、アウトらぴてクスをはじめとして27種の人類が生まれたが私たちホモ・サピエンスのみが生き残った人類となった理由を、飽くことなき新しいものへの挑戦を指摘している。ビーバーのような毎年同じ巣を作ることに満足せずに生活の拡大のためにフロンちぃあを求めて地球規模に生息を広げていった。いつまでたっても満足しない脳がホモ・サピエンスを人類で唯一生き延びさせたときうのである。また、環境に適応するために新しいことを貪欲に吸収しようとする幼児期の脳を一生持ち続けるのが他の存在に見られない特徴だという。であるがゆえに文明がおこり、産業革命、高度な科学技術へと発展させていったのであろう。そして過大な脳をのゆえにうまれた‘精神’の安定のために宗教がうまれたといわれる。身内の死を悼んで土中に埋めて弔ったときう形跡がネアンデルタール人の洞窟から見つかったという。埋葬という精神行為は他の生物にはみられないものである。その埋葬文化はホモ・サピエンスの人類にあっては巨大なピラミッドや秦始皇帝陵、広大な仁徳天皇陵を造営した。故人を悼むというよりは強大な権力の誇示といったほうがふさわしい。現代は核爆弾がそうであろう。貪欲に挑戦することが現代人類の本性だとするならば、地球でしか生きられない生物であることを鑑みてその限界とその中での可能性をかんがえなければならない時代であることは確かである。人工知能AIの開発が地球生命・存在にとってプラスになることを願ってやまない。人類の生物的存在の限界を弁えた上で、多様性を認め合ってそれぞれが自軍を表現していく。大谷翔平は野球に自分の進化を見、坂本龍一は音楽を通して世界に訴え、ゲーテは「ファウスト」などに自分をこめた。それぞれが思いっきり好きなことをやる、このことこそが豊かな人間の生活の基本であるように思う。しかし、権力をもった人間は暴走しやすいようである。ミサイルや核爆弾に精を出している国がある。日本も他国攻撃能力をもったトマホーク導入に懸命である(無論、アメリカの軍事負担軽減のためにアメリカに買わされたとある識者はいう)。日本国内では北朝鮮やロシア、中国が悪くいわれているが、米英仏のことはあまり問題にしない。日本はアメリカに忠実な犬だとある人は揶揄している。グローバル化している時代ににあって対立を煽っている様はまるで水そうの中のメダカどうしの食いあいである。今や人類破滅の武器をもったホモ・サピエンスはそんな破滅への行動に‘思いっきり好きなこと’としてやってほしくないものである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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