15.障碍者について  (神谷湛然 記)

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  15.障碍者について

 先日の夕方(23年5月16日)、妻からこんな話を聞いた。
 京都の病院からの帰り道で、四条河原町で電車に乗って座っていると、白杖をついた40台とおぼしき男性がよろよろ歩きながら座っている何人かの乗客の膝をさわりながらあからさまに席を譲って下さいといわんばかりの態度だったのでさすがの自分も腹が立って譲る気持ちにならなかったという。ある女性客が立ち上がって席を譲ったとのことであるが、妻は目が悪いだけで足はちゃんとしているのだから普通の人と同じように立つこともできるのだから立っててもいいんじゃないの、同情を買おうとしている、甘えるなといいたいと憤慨していた。
 私は身体障碍者一級の全盲者であるが、この話を聞いた時、障碍者はどうあるべきか改めて考えさせられた次第である。私ならどうしても座りたいなら、駅員さんに案内してもらって探してもらい、混んでいたならばドア付近の握り棒に案内してもらって立ち乗車する。私も障碍者であるが、、足はしっかりしているので普通の人と同様に立ち歩きはできる。
 障碍者にもいろりろある。日本では、身体障碍者とは目・耳・心臓・腎臓・肢体・知的知能の6つの重い障害を持つ者と法律で定められている。しかし、足のおぼつかない老人がいる。バランスが取れにくくなることもある身重の妊婦がいる。こういう人たちも広い意味では一種の障碍者ではないだろうか。なんらかの病気で弱って疲労困憊という人も然りであろう。
 同じ目の障害でも違う。まったくの全盲、明暗が分かる全盲、おぼろげながら姿形分かる全盲、視野の狭い弱視、視野の広い弱視、小さい字は読みやすいが大きな字はかえって読みづらい弱視、大きな字のほうが読みやすい弱視、暗いところでは見えづらい弱視、暗いところでも問題のない弱視、色のわからない弱視、色はわかる弱視、炎症があって目がつらい視覚障碍者、炎症もなく痛みもない視覚障碍者、疲れるとほとんど見えなくなるが、疲労回復すると普通通り見える視覚障碍者・・・いろいろである。私の場合は、十歳ごろから夜盲が出始め、中学生からメガネを必要とする視力低下をきたし、高校生あたりから視野狭窄を感じはじめ、30歳ごろに眼科で網膜色素変性症の診断をもらい、30代なかばから視野内に歪みが現れ38歳に強度の視野狭窄によって身体障碍者2級の認定を受け、50代なかばに拡大読書機でも読めなくなってそのころに身体障碍者1級と障碍者年金の受給認定をもらい、66歳の今は光だけは分かる全盲となっている。目以外は幼少からの難聴があって補聴器両耳装着で日常生活が送れ、体は高脂血症があるだけでいたってげんき元気であり、その高脂血症も服薬で正常値に安定している。あとは妻から頭が悪くなったといわれるが、若いころに比べたらどうしても記憶力が衰え、堪も弱くなっているのは致し方ない。それでもひどくならないよう毎朝ラジオ体操と認知機能体操、散歩、読書、書き物、尺八練習などをしている次第である。
 1級ないし2級身体障碍者には、バスや100キロ以上乗車の鉄の半額運賃制度、同行者でのバス・鉄道半額運賃、映画や美術館・博物館などでの割引サービス、重度障碍者に対する医療費補助、各種の障碍者支援サービス(視覚障碍者では点字図書館からの点字・録音図書の無量貸出、歩行訓練や自立のためのリハビリサービス、同行援護サービスなど)、自治体からの日常生活用具支援サービスなどが受けられる。私は日常生活用具支援で1割の自己負担金で拡大読書器や音声時計、点字用具、点字タイプライター、白杖、斜光メガネ、視覚障碍者用ICレコーダー、パソコン視覚障碍者用各種ソフトを安く購入した。おかげさまで日常生活が送れやすくなったことは事実である。
 ただ、障碍者だからそんなサービスは当然だという認識は持つべきではないと私は思う。先人たちの苦労と努力の賜物であることに感謝し、‘弱者’から’強者’へと自らを引き上げて社会的構成員の一人として社会を担っていくためのツールとして使わせていただく、これこそが大切ではないかと思う。巷では障碍者は社会の寄生虫だという空気がいまだにある感じがする。生活困窮者に対するのと同様に、‘弱者のための政治’を隠れ蓑にして税金を食い物にしている実態があることによるように思われる。働ける身体にも拘わらず働こうともしないで酒やパチンコに明け暮れて生活保護をもらい続けている人がいる。地元の大阪ではある視覚障碍者団体が補助金を私的に流用したのではとの疑惑で大揺れしたことがあった。困窮者支援と称して生活保護や補助金をピンハネしていたという報道もあった。公金がカラム事業の場合は障碍者・困窮者福祉に限らず公共事業汚職や五輪汚職、コロナ支援金不正受給・事業不正落札、天下り用幽霊特殊法人の問題など昔からよく問題になりがちではある。医療弁場での‘生かさず殺さず’もその一つといえるであろう。
 障碍者としては自分一人では克服しにくいハンヂィーキャップを公的支援の助けをかりながら自立していくことが求められているといえる。老人も一種の障碍者ではないかと前述したが、それに関連してこんな話を聞いたことがある。バス・地下鉄の敬老パスは、自宅に引きこもりがちな老人を外出しやすくすることによって病気や認知症のリスクを減らし、、社会への消費や活動を促すとのことである。ただ単に可哀そうだというからではなく、‘薬いらず医者いらず介護いらず’の人を増やして医療や福祉の公的負担を軽減するためであるということである。
 大阪市に住んでいる私は地下鉄の大阪メトロや大阪シティバスを障碍者パスで無量に利用させていただいているが、‘得した’と思うのではなくて不利な立場を公的支援で補っていただいて積極的に社会と関わってほしいという声だと聞いて利用すべきだと思う。なお、障碍者でも一定の所得がある人には支給されていない。
 障碍者に限らず公的支援は社会をいかに安心安全、住みよい環境にしていkじゅのかのためにあるはずであり、その支援のために私たち半所得税・住民税・消費税などの税金を払っている。税金をどう使ってもらうjのか、一人一人がもっと政治に関心をもつべきであるように思う。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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