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17.涅槃について
涅槃ということばは仏教ではなじみ深いものである。原語のサンスクリット語でニルヴァーナと言い、すべての煩悩の火が吹き消された状態、すなわち安らぎ、悟りの境地をいうとされる。また、生命の火を吹き消す、ということから入滅すなわち死去ということでもあるとされる。「煩悩の火を吹き消す」とか「生命の火を吹き消す」と聞くと、活動的に生きたり生命を保つことが悪のように感じてしまうのは私だけであろうか。釈尊はいったいどのような意味でニルヴァーナということばを用いられたのであろうか。
釈尊はある日、山中から見える街を指さして弟子たちに、‘あの街は欲望の火で燃え盛っている。’という話がある。欲望は煩悩と同義語で語られているようである。
中村天風は「盛大な人生」などで、イエスも釈迦も大きな過ちを犯している、それは欲の否定だと断じた。欲がなければ真実を求めようともできないのではないか、と鋭く批判している。
古来から宗教一般において生命エネルギーを否定的に扱っている傾向が見受けられる。これに抗して現れたのが仏教においては大乗仏教といわれる一派であり、法華経はその代表たるものであろう。キリスト教においてはルターのプロテスタントであろう。
‘煩悩即菩提’ということばがある。生きている生身の人間のままで仏だという意味である。生命力に満ちたこの身が仏だということである。ニルヴァーナは釈尊にとって何だったのか、彼の生涯に少し触れてみたい。
王族の子として生まれた彼は幼少のころから物思いに深く沈む正確であったらしく、食う食われつの自然のありさまや生老病死の世の習いに心を痛めてふさぎこむことが多かったという。美女を多く侍らされても、結婚して子を設けても心は晴れず、出家したという。バラモンの僧になったということであるが、数日でヨーガの最高境地に到達できたが満足できず、さらにいっさい飲食しない断食行や棘のあるイバラを身に巻きつけてイバラの上での瞑想行などさまざまな苦行を重ねたがやはり納得することが得られず、骨と皮となってしまった彼は修行集団から離脱してある川のほとりで衰弱で倒れ伏した。そこへ通りがかった村娘からの乳粥の供養を受けて元気を取り戻し、近くの菩提樹の下で坐禅を組み、八日目の早朝、明けの明星を見て「山川草木悉皆成仏」したという。
ここからみえてくるものは、感覚を麻痺させるとか生命のんエネルギーを吹き消すとかいうものではなくて、一個の生命をもった個体としてそこに安住して身と心を外界に解放して自分と世界が一枚になったということでえある。釈尊の苦労の跡形を辿っていくならば、どこに煩悩の火を消すとか生命の火を消すとかがあるのだろうか。あるとすればいわゆる苦行の時であろう。生命を否定するところには安らいはない、生命を肯定するとことに真の安らいがある、と釈尊はいっていると私は思う。
笑い悲しみよろこび怒る・・・、それは悪いことなのだろうか。無表情無感動が理想ならば石女木人こそが理想となる。それは人間ではない。ミイラである。欲望を持つべきでないなら、クラーク博士の‘’少年よ、大志を抱け’はとんでもないということになる。
法華経の寿量品の終わりあたりに「放逸著五欲」ということばがある。‘仏は常におられると思ってそのために驕りの心が生じて欲望ををほしいままにして悪道の世界に堕落することがあるから、時には仏は実は亡くなったと言うことがある’の文脈のなかで用いられている。五欲とは仏教では、目・耳・鼻・舌・身体感覚の五感によって生じる欲のこととされる。意味的には五欲に限らずすべての欲望を解釈できる。問題はそれに「放逸著」することである。適度の酒は良薬であるが、飲みすぎると毒となり体を害したりまわりに害毒を巻き散らしたりする、ということである。つまり、適度の欲望こそ最適最高であるということである。では、適度の欲望とはなにか。腹八分とかいうものではなくて自己コントロールされた欲望ということのはずである。自己コントロール下にある欲望なら、大いなる‘大志’には大いに欲をかけなければならないはずであり、仏教でよくいわれる‘誓願’もそこへ向けての大いなる欲望がないと成就しないはずである。
「小欲知足」ということばも仏教ではよく耳にする。これも私からいわせばまことに奇怪なことばである。‘少ない欲でもって足るを知る’ということであるが、あまりにも‘腹八分’にとらわれてはいまいか。適度な飲食という概念は聞こえはよいが、きつい肉体労働には大いなる飯が必要だ。また、大いなる大志には大いなる欲をかいて途中で満足してはいけないはずである。宗教人にしろ職人にしろ技術者研究者にしろアスリートにしろ、その道を究めようとする人は究めれば究めるほどその道の奥深さを知ってよりいっそう己の未熟さを思い知らされるものである。私も坐禅ををはじめて36年立つがいまだに知足できないでいる。尺八もはじめて20年ほどになるが、練習すればするほど先達の演奏を聞けば聞くほど奥深さと違った世界が感じられてかえって尺八の世界の広がりと深さに引き込まれるばかりである。
中村天風のいうように、宗教は欲を無くせという、これは大いなる間違いだ、というように、宗教は欲を悪くとらえる傾向がある。生命が生命として生き生きさせるのが宗教の役割のはずである。生命の実相に照らして、欲とは何なのか、あるべき欲とは何なのか、改めて問い直す必要があるように思う。
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