18.仏心について  (神谷湛然 記)

/  18.仏心について

 仏心ということばは一時流行ったことがあった。戦後文学のなかでも罪を犯した人にも‘仏心’’が存在している、といったものである。極悪非道の悪人みも慈悲の心がある、ということである。‘仏’がいわゆる観音さまというような意味合いで用いられているようである。日常でも、優しいまなざしで穏やかな正確の人を評して「あの人は仏さんみたいな人だ」とか話することがある。キリスト教でいえば聖母マリアのようなものであろうか。
 仏教の世界で最も人気があるのは観世音菩薩であろう。大慈大悲の権現とされ、中国でも日本でも多くの寺で観音菩薩の仏像を見かける。聖観世音菩薩、十一面観世音菩薩、千手観世音菩薩、如意観世音菩薩などいろいろである。苦悩を憐みの心でもって救い取って下さるという信仰が古くからあり、観音菩薩がおわしめるという浄土へ参りたいという観音信仰が乗じて、日本では遥か南の海のかなたにあるとされる極楽浄土を目指して死人あるいはときには生きた身のままで小舟に乗って南に向かって海に流されるという「補陀落渡海(ふだらくとかい)」があった。この様子は井上靖の「補陀落渡海」の小説に詳しい。生きた身のまま熊野の浜から流されていく僧を描いた作品である。人々はこの行事によって天災や疫病、不作不漁のたたりの解消を願ったという。密室的には流されていく人は生贄ということである。
 また、チベット・ラマ教の最高指導者ダライ・ラマが追わしめるとされるポタラ宮殿のポタラは日本語の補陀落のことで観音浄土ということである。チベットの人たちはポタラ宮殿に向かって五体投地を繰り返しながら巡礼していく。
 観音菩薩は聖母のように形容されることが多いようである。大日如来の男性的な姿とは対照的である。江戸時代の仏師で僧でもあった円空は一刀彫でシンプルでありながら素朴ながら慈愛に満ちた観音像を多く彫った。暖かいまなざしで見守って下さっているような感覚を覚える。
 以上も含めた観点から仏とは慈悲に満ちた暖かいまなざしの存在とみられるようになったと思われる。仏の心とは観音さまのような心といいかえてもよいだろう。
 しかし、仏とか観音菩薩とかの本来の意味は何であったのだろうか。
 仏とはサンスクリット語でブッダのことで心理に目覚めた人というう意味である。中国語では意訳して覚者とされる。仏陀はブッダの漢字による音訳である。心理に目覚めた人とはいかなる人なのであろうか。仏教教学では、仏教開祖の釈迦を指さしての仏、大日如来のように宇宙本体を指さしての仏、西方にいるとされる阿弥陀佛や東方の多宝如来のようにそれぞれの場所のありようを示すものとしての仏、薬師如来や観音菩薩・月光や日光の菩薩のように役割や働きを示す仏など具体的な人間にとどまらず空間や天体、働きや機能までを仏と形容していることがある。仏とは目覚めた人にとどまらず目覚めたことによって現れる世界もしくはありようということになるであろう。慈悲とか優しい穏やかなまなざしとかいう情緒的なものではなく、真理の世界ということになる。そしてその真理の世界とはなにかといえば、般若経では‘空’といい、法華経では‘諸法実相’といい、華厳経では‘因縁’をいう。瑜伽派では‘唯識’という。釈尊自体は「諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」と諭したといわれる。
 観音菩薩はどうであろうか。原語のサンスクリット語ではアヴァローキテーシュヴァラといい、観察されたという意味のアヴァローキテーと自在者という意味のシュヴァラが結合したことばであるという。そこで玄奘三蔵は般若心経を漢訳する際に観世音ではなくて観自在としたといわれる。では、自在者とは何なのか。妙法蓮華経観世音菩薩普門品に目を通してみたとき、この経典は鳩魔羅什漢訳してアヴァローキテーシュヴァラを観世音菩薩と訳したのであるが、経典の前半ではアヴァローキテーシュヴァラを一心称名すればあらゆる困難から身を守ることができると説いており、中段ではいろいろな姿に変化してその姿はその姿として絶対真理として存在していることを説き、後段では自由自在にこの世の娑婆世界で活動していく様が説かれている。末段は偈文で要略したものである。鳩魔羅什は、もろもろの苦悩に苦しむ人々がアヴァローキテーシュヴァラのことを聞いて一心いアヴァローキテーシュヴァラの名唱え場、アヴァローキテーシュヴァラはその声を観じてすべての人々を苦しみから解放される、という文脈から世の人々の称名の音声を観じるアヴァローキテーシュヴァラということで‘観世音’と漢訳したのではないかといわれている。その文脈に続けて経典は、アヴァローキテーシュヴァラの名を身に持つ者は大火に飛びこんでも焼かれることはなく、大洪水で漂流されてもすぐに浅いところを得て命を救われる云々とある。文字面だけを追っていくと、常に近くに最高最上の善のスーパーマンがいて困ったときはそのスーパーマンの名前を呼べば必ず助けに来てくださる、といった案配であろうか。‘苦しいときの神頼み’ということであろう。近代以前ならともかく発達した現代においてはたわ言と思われるるのが落ちである。思考停止は時に暴走となることがある。いったいアヴァローキテーシュヴァラはスーパーマンなのであろうか。
 経典の中段でのアヴァローキテーシュヴァラは身分男女人非人問わず様々な姿に変じながらそれぞれが真実者として絶対無比であることを説き、後段でアヴァローキテーシュヴァラはそれぞれの姿でもって自由自在に娑婆世界を遊び行き来すると説いている。この中段と後段を踏まえて前段をみるならば、「一心称名」をアヴァローキテーシュヴァラと一体となることだとしたならば、さまざまな苦悩から抜け出すことができるということになると私は解釈する。「大火」とか「大水」とか「夜叉羅セツ」とかなどは心の苦悩の形容をいっているだけである。では、アヴァローキテーシュヴァラと一体となるということはどういうことであるのか。世間のしがらみを超えて真実人として自由自在に生きていくということだと説いているのではなかろうか。真実人とはまさしくアヴァローキテーシュヴァラそのものとなる人である。観察された自在者アヴァローキテーシュヴァラは自己を解放して自ずと宇宙からの‘啓示’によって自覚させられた自在なる者としての存在のことである。しがらみを離れ、執着から離れ、通念観念概念思い込みから離、他との比較を離れてまっさらな目で世界をみたとき、苦悩のほとんどは作りごとと知らされるはずである。人によって同じ労働が労苦であったり快楽であったりする。メシを食うために働いているのか、働くためにメシヲ食うのか、とある老師はいった。生き生きとした楽しい人生を行きたいのが人々の思いではなかろうか。暗い張り合いのない心身ともに苦労ばかりの人生を生きたいという人はほとんどいないであろう。骸骨のころがる荒野よりも花園に満ちた楽園のなかを歩きたいものである。メシを食って暗い道を歩いていくよりはメシを食って明るい道を作って歩きたいものである。
 このようにしてアヴァローキテーシュヴァラを考察してみたとき、アヴァローキテーシュヴァラとは実は私たち一人一人のことであるということである。私たち一人一人が本来‘自在者’であり、その‘自在者’たる存在は私たちが知らずに身につけてしまった片寄ってしまた癖を取らないと得ることのできない真実者である。その片寄った癖を取るためにすぐれた先人たちはそれぞれの言い回しで解決法を提示された。それがイエスのキリスト教であり、釈迦の仏教であり、ムハンマドbのイスラム教などであった。
 本当の意味での「仏心」は、宇宙心理すなわち「諸行無常 諸法無我」とか「空」とか「如是」とか形容されるありように目覚めて自由自在に人生を力強く歩んでいく姿であるといえるではないだろうか。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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