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19.‘父母未生以前’について
‘父母未生以前の面目’という公案がある。臨済宗において最初の関門とされる禅問答である。夏目漱石が円覚寺に参禅したとき、釈宗演から最初に呈示された公案として知られている。漱石は「門」という小説でそのことの顛末を詳しく述べている。なお、白隠は最初の禅問答を‘隻手の音声’としている。いづれにしろ、公案は狭い識見を破って真実の世界に至らしめようとするものであるからどれを選ぼうと構わないのであるが、とりあえず‘父母未生以前の面目’について考察してみようと思う。
文字通り読めば、父母すなわち親がまだ生まれていない以前のありよう、となる。親が生まれる以前、となら100年前より以前は、となる。だが、親がまだ生まれていない過去より以前となると、45億年前の地球誕生以前いな138億年前といわれる宇宙誕生以前となると、この世界この宇宙が成立する以前は何か、と問われると思考が混乱して真面目に考えるとノイローゼになってしまいそうである。禅は実はその思考混乱を起こして概念の破壊を行おうとしているのである。般若心経の「色即是空 空即是色」とか宝鏡三昧の「夜半正明 天暁不露」とかと同様に相対立する概念を連ねて言語構造を破壊して言語以前の消息を示そうとしているのと同じである。‘無差別’という一元論や主客対立の二元論とかそんなもの。ではなくて、純粋にものごとを見よ、と喝破しているのではないだろうか。心身を解放して念相観をやめて坐は坐のままに、歩きは歩きのままに、一拭き一掃きは一拭き一掃きのままに、一噛みは一噛みのままにになったとき、思考分別常識を超えて‘本来の面目’が現ジルということである。道元のいう‘見るままに見るというなり 聞くままに聞くというなり’である。‘父母未生以前の面目’を、‘仏のおん命’とか‘二つに別れる以前の消息’とかいうレベルのものではなくて、そのものをそのもととして見るということのはずである。糞も飯と同じだといって糞を食った場かがいたが、それこそ悪しき無差別論者である。糞は糞としての機能性能があり、飯は飯としての機能性能がある。糞は畑の肥しとなって穀物や野菜を育て、育った穀物野菜を食して生命を得る。糞はしかるべきところにして衛星を保ち、食糧は腐らないように保管して衛生的に調理する。しかるべきものはしかるものとしてあり、優劣上下関係は存在しない。蚊を殺すなといいながら平気で菜っぱの命を殺して食っているお偉方がいる。肉食は動物を殺して食べるからよくないが、菜食は動物を殺さないで植物を食べるからよい行いだ、と言う人がいる。そういう論理で森をどんどん破壊して畑を作ったり植物を過剰に収奪したりすると土地が荒れて砂漠になることがある。エジプトのナイル川流域や中国黄河中流地帯はかっては豊かな森の恵まれた土地であったが、今では砂漠や岩だらけの荒野となっている。動かざる生命すなわち植物の命をないがしろにした結果である。動物も書奥物ももとは一つの生命から分化したものである。自然の摂理のなかでお互いが関わり合いながら命が命を食みながらでしか生きてゆけない存在でありながらバランスよく自然体系が保たてている。空気や太陽、昼夜、雨、風など含めて宇宙一切のすげての命の支えのなかで私たちはあることを自覚させられるはずである。殺生は悪だとか肉食は戒めに反するが菜食は最高最善の食事だとかいうつまらない理屈を捨てて、もっと大きな視野からものごとを見るべきではないだろうか。
‘父母未生以前の面目’から敷衍して‘そのものがそのものとしてある’ことの意味を展開してきたのであるが、‘仏のおん命’とか‘先祖さまのおかげを思いなさい’とかんどの観念的道徳的解釈に始終しているさまを耳にする。夏目漱石は円覚寺参禅ののち晩年に‘則天去私’に達したといわれる。にもかかわらず彼は神経衰弱というノイローゼで五十代で逝去した。はたして‘則天去私’で心の安らいを得たのであろうか。私にはいやな世の中から離れて極楽浄土のあの世にまいりたい、としか思えない。‘私’は‘私’のままでよいのではないか。‘私’が‘私’に落ち着いたとき、そこが天国のはずである。漱石はやはり‘父母未生以前’がわかっていなかったと思われる。
ついでに、‘隻手の音声’をも見てみようと思う。
両手で叩くとパンと音がなるが、では片手のにの音は聞こえるか、という公案である。いろいろと頭をひねくりまわしてなんとか片手の音を聞こうとする人がいるが、こじつけ屁理屈に終わるであろう。‘父母未生以前の面目’と同様に言語構造を破壊するのが目的の禅問答であるから、片手なる‘隻手’とか‘音声’という概念を壊して片手そのものに向き合うのである。思慮分別をやめて片手そのものを片手そのものとして向き合う。そのとき寂静たる音声でもって片手が片手そのものとして片手のままで片手している。他に瞞ぜられず目は横に鼻は縦についているということである。自己が自己として絶対真実者としてすでに存在していることを知りなさいとこの公案は諭しているのだと私は読む。自分だけが絶対真実者ではない。他人も草木や虫けらも社会通念の貴賤をこえて一切合切が一つ一つ絶対真実者であるということである。鳥は大空を飛びながら空の尽きるところを知らず、魚は大水を泳ぎながら水の尽きるところを知らない。無限の大空を、無限の大水を自由自在に遊往する。自己の本来の面目すなわち本来の姿を私たち一人一人が取り戻したいものである。
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