25.人権について  (神谷湛然 記)

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  25.人権について

 ある日、行政書士のための勉強をしている妻から人権の話があった。テキストに、人権とは生まれながらにして誰もが持っている権利だと書いてあるという。そこから憲法や民法などができているという。
 私はそれを聞いて懐かしい思いを感じたものであった。私は高校生のとき学んだ倫理社会の授業でルソーの‘自然い帰れ’を知ったとき鮮烈な思いをもった。人間は本来は善であるのに社会の発展とともに拡大した私有制度のために格差が生まれ戦争状態となり悪となったという。人生社会である原始社会こそ最も幸福であったとする彼の思想はなにか魅きつけられるものを感じたのであった。大学生になって学生運動に関わり、マルクスやレーニンをよく読んだものであった。ルソーの思想の現代社会での実現としてマルクス・レーニンの共産主義をみたともいえる。なぜなら共産主義思想は私有を廃止しすべてを人民のものとする国有制度だからである。プロレタリアートこそなにも持たぬゆえに最も科学的であり最も理性的であるとする共産思想は私をとりこにしたのであった。人間は生まれながらにして平等であり、いかんなる理由があろうと侵害されない権利を有する、という思想は1789年フランス革命を端緒としてアメリカ独立宣言、ロシア革命へと続く流れを作り出したといえよう。しかし、現実は植民地での搾取収奪と非人間的扱い、人種差別、一部の人間の密室政治による独裁体の人民制への自由への弾圧と搾取であった。現在、欧米と中ロの対立が先鋭化しているが、元を辿れば利権をめぐる争いである。誰が覇権を握るのか、経済的にいえばドルが今まで通り基軸通貨となるのか人民元がドルにかわって新たな基軸通貨となるかの争いだとある専門家はいう。ルソーの理想はいまだに実現されていないということである。そもそも人権なるものが実在するのであろうか、陣減の本質から考え直してみようと思う。
 人類が他の存在と大きく違うのは過大な脳、とくに非常に発達した大脳の前頭葉をもっているということである。私たち現生人類であるホモ・サピエンスはネアンデルタール人も含めた他種の人類と違うのはたくさんの人を群れとすることである。ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより100㏄大きい1550㏄の脳を持ち(ちなみに現在の人類は1350㏄といわれる。脳が大きいから進化が進んだとはいえないことである)、がっちりした体を持ったパワフルな人類だったといわれる。だが、彼らは単独行動を取り、集団で協力して獲物をとることはなかったといわれる。ホモ・サピエンスは役割を分担しながら集団で協力して獲物をとり、狩猟も含めて生活の知識や技術を集団でお互い研鑽して高めあい、その成果を仲間や家族・子孫に伝えていくという能力も持っていた。その決め手は言葉である。単体ではネアンデルタール人に劣るホモ・サピエンスが群れを作ることによってネアンデルタール人より高度な狩猟・生活技術と工夫をもち、それを他に伝えて継承していくことができたということである(投げ槍や寒さに対する衣服や火による暖炉の活用はホモ・サピエンスが生み出したといわれる)。これが、創造性豊かに未知のフロンティアを切り開いていった源泉となったといえる。他の人類や生物と違って地球上のあちこちに生活範囲を拡げていったということである。約20万年前に東アフリカで誕生したホモ・サピエンスは10万年ほど前にアフリカを出てユーラシア大陸の中東あたりに渡り、そこから東西と北に分派してある者は海を渡って島々に行き、ある者はシベリアからベーリング海峡を渡って北あめりか・南アメリカへと移動していった。私たちの祖先は工夫と技術・協力でもって厳しい環境にも適応して地球上全般に生活生息を拡大していったことは、現生人類・ホモ・サピエンスの豊かな創造力と飽きることのない欲望の強力さを思い知らされる。より良き生活を、より豊かな恵みを、より良き豊かな未来のために前進する。その衝動の強さは他の生物には見られない特徴といえる。
 ホモ・サピエンスの末裔である私たち人間は、お互いに強力しあう共同社会を形成することによって互いに補いあい工夫しあい向上しあいながら村を町を市を国を世界を作それによるっていったのである。お互いに助け合いながら役割分担しながらより良き生活を作っていこうとする、この働きこそが私たち現生人類の特徴だといえよう。原始共同体においては余剰的生産物がほとんどないためにルソーの言うように戦争状態のほとんどない原始共産体制のために人間にとって幸せな時代だったとある意味では言えるかもしれない。ここから考えてみるならば、お互いがかけがえのない存在として認め合うという精神があったといえるのではないかと思う。男は狩りをし女は子を産み育て蓄えと家庭をまもり、農作業には共に励み、老人は人生の智慧と経験者として尊敬され、子供は未来への財産として大切にされた。人間として存在否定されることはなかったといえる。それが、生産技術の発達によって生産力が拡大するもとによって余剰生産物が発生して私有の観念が生まれ、人間格差が生じ、支配-被支配体制ができてきたとされる。ここに身分の観念の形成とそれにによる貴賤観念が生まれ、それぞれの人間生命に軽重が生じてきたといえる。あの人はやんごとなきお方だとか、お前は虫けら同然で殺されても仕方ないということである。
 キリスト教やイスラム教には‘神の前での平等’とか、仏教では‘法の前での平等’が唱えらてている。原始共産的共同体のありようが根底にあるように思われる。何人も生命として存在として否定されるものはないということである。能力や正確・容姿・考えの違いは単なる個性の違いだけであって、本質は同等の存在価値を持っているということである。実は人類は種として持つ多様性によってお互いに補いあいかけ合いながら他の生命にはみられない類まれな創造力の発達と種としての任類の広範囲へbの拡散をもたらしたといえる。違いは多様性の現れであって本質としての生命に価値の違いはないということである。金持ちであろうと貧乏であろうと‘偉い人であろうと名も知らぬ無名の人であろうと男女老若関係なく、いかなる人種であろうと存在価値に違いはないということである。私たち人間は元を辿っていけば東アフリカの山中にある湖畔に暮らしていた祖先にすべてが収斂される。現代人類学はミトコンドリアDNAの研究によってそれを科学的に証明した。人種は気候や環境によって作られたものであって厳密に言えば人種なるものは存在せず、ただホモ・サピエンスのみがあるだけであるということである。
 以上のように考えてきたとき、人間の本質はみな同じだということだということである。これを近代ヨーロッパ思想は「人権」という観念にしたといえる。宗教では「人権という観念は人間に留まっているきらいがあるので積極的に「人権」という言葉は使わないようである。むしろ人間を超えて宇宙生命の視点から生命の実相をみようとするので、人間だけが尊重される観のある「人権」にはなにか引っかかるものを感じやすいように思う。‘山川草木悉く皆仏と成れり’という世界の把え方は「人権」にはないものである。今、地球の温暖化が問題にされている。空気・森・海・川・微生物も含めた生態全般への配慮がやかましく言われている。地球生命全般からの恩恵によって人間が生かされていることをよくよく考えなければならない時代となっている。大量の核爆弾の存在は人間至上主義のなれの果てである。「人権」をあれほどうるさく言うアメリカ・イギリス・フランスは核を捨てようとしない。自国の防衛のためだという。実は核を振りかざして威嚇してきたのが核保有国の実態である。そんな横暴に抗して現れたのがインド・パキスタン・イラン・北朝鮮だといえる。日本も核武装すべきだという主張が出ている。しまいには世界中が核武装していつ核が暴発しても不思議ではなくなるだろう。いや、今すでに暴発寸前だと識者は警告している。宗教は生命全体のために核兵器完全廃棄を訴えるべきである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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