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36.‘生きているだけでラッキー’
先日(9月29日)の昼ごはんの時、妻から‘りおちゃん’のyoutubeを聞いてみてといわれた。‘りおちゃん’は6歳の女の子だが、先天性疾患で4回ほど死にかけ、側弯症の手術で神経が傷ついて歩けなくなり、車いす生活となっているのだという。私の聞いたyoutubeでは、お母さんと再生医療についてやりとりしている場面であったが、どんな手術なのか、副作用はどうなのか、再生委用の展望などについてしっかりした口調で喋っていたのが印象的だった。聞いた後、妻が言うには、‘りおちゃん’は視聴者からの質問も受けていて、ある視聴者から悩みの相談をされた時、‘生きているだけでラッキー’と答えたという。この話を聞いて私は深く思ったのであった。
私は縁あって芥川賞作家で臨済僧である玄祐宗久の「まわりみち極楽論」を先日読んで、その本に雪山童子(せっせんどうじ)の偈について書かれていたところがあった。
雪山童子はジャータカ(本生譚 ほんしょうたん)といわれる釈迦の前世に修行していた時の話の一つである。
釈迦が前世に雪山童子としてヒマラヤで修行していた時、遠くから‘諸行無常 是生滅法’という声が聞こえてきた。童子は‘これは?!’と気になって超えのした方に近づいていくと、この世とは思えぬ恐ろしい鬼の形相をした巨大な夜叉がいた。童子は意を決して尋ねた。その句を言ったのはあなたかと。夜叉はそうだと答えると、童子はさらに先の言葉があるはず、ぜひ教えてほしいと願うと、夜叉は童子の肉を食わしてくれるなら教えてやとうと。童子は逡巡したが真実のためなら死んでも構わないと覚悟を決めて夜叉に自身を提供することを伝えると、夜叉は言葉を発した。 ‘生滅滅已 寂滅為楽’と。童子は真実を手にしたことをよろこび、夜叉との約束通りに崖から身を投じた。すると夜叉が帝釈天に変じて童子を手に受け止めて命を救ったという。帝釈天は童子の覚悟を試したということであったという。
‘諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽’は涅槃経に無常偈として納められている一節である。これを弘法大師即ち空海がいろは歌として和訳されたと伝えられている。即ちいわく。
‘色はにほへど散りぬぬを わが世たれそ常ならぬ 有為(うい)の奥山けふ越えて 浅き夢見じ酔ひもせず’
私なりにこの無常偈を訳してみようと思う。
すべてのあらゆる現象は変化しないというものはない。生まれては滅していく、たえず移ろいゆくのがこの世の中の習いである。しかし、変わりゆく現象の本質は無窮の宇宙生命の一つ一つの表現であり、宇宙生命そのものは生じるとか滅するとかいうことなく、そのものがそのものとして今あるだけである。そこに安住することを楽とするのである。
私は訳しながらふと金子みつづの詩を思い出した。
‘蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀《どべい》のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
さうして、さうして、神さまは、
小ちゃな蜂のなかに。’
金子みつづの‘神さま’は、私のいう‘宇宙生命’とまさしく同じであると私は感得した。虫も花も草木も動物も人も土も岩意志も水も星も太陽も暗闇も光もなにもかもが宇宙生命の発露である。ただそうしているだけである。これを仏教では如是といい、空といい、仏といっている。卑しいとか尊い、綺麗とか汚い、高いとか低い、金持ちとか貧乏、進んでいるとか遅れている、優れているとか劣っている・・・。そういう価値判断の基準を変われば違った世界が現れてくる。ゴキブリは3億年前の古生代後半に誕生した昆虫といわれている。中生代に栄えた恐竜より先輩である。ましてやわれわれ人類よりはるかに大先輩である。ゴキブリは森の高温多湿の環境の中で地表の上に降り積もった枯れ葉や死骸などの腐食物を餌として生きていた。現在、人間の家の中にいるのは、その環境がジメジメゴミゴミとしていて、かつ、おいしい腐ったものないし腐りかけのものがあって、ゴキブリにとって最高の環境があるからである。ゴキブリが‘悪い’のではなくて、そこに住む人間が‘悪い’のである。
‘悩み’は人間特有のものとされている。将来への不安・人間関係・家族関係・劣等感・不充足感・孤立ないし孤独感・・・。自分の思い通りにならないことが根底にあるように思える。お金がたくさん欲しい、おいしいものをたくさん食べたい、恋人がほしい・子供がほしい・友達にめぐまれたい・いつまでも若くいられたい、健康でありたい、偉くなりたい、強くなりたい・目立ちたい、円満でありたい、出世したい、有名になりたい、尊敬されたい、・・・。欲求には身体に関わる生理的欲求と心による精神的世九に大きく区分できるであろう。欲求は生きていく上で不可欠である。もしそれを否定するなら生きてくるなということになる。欲求が悪いのではなくて、使い方が問題だということである。どんぐりの背比べをやめて自分自身が何をしたいのか、どう生きたいのか、今ある地点にある自分を受け入れてそこからどうするのか、という視点が問われているように思う。‘りおちゃん’の‘生きているだけでラッキー’は、今生きてあることを100%感謝して今を思いっきり生きましょうよ、と呼びかけているように私には聞こえてくるのである。ただし、とにかくドタバタせよと言っているのではない。ボーッとすることも一つの輝きだということである。起きてよし、食べてよし、働いてよし、遊んでよし、寝てよし。‘晴れてよし 曇りてもよし 富士の山’である。今を味わうことができれば、将来への不安も消えて何をなすべきか、おのずから出てくるのではないだろうか。
私は全盲であるが、まだ視力があった若い頃、宣告された眼病に将来への暗闇の世界を想像してドン底の嘆きしたことがあった。しかも眼病たる網膜色素変性症は年とともに真綿で首を締められていくように拷問していく。その間、西洋薬だけでなく、漢方薬を試したり、目にボマ油を点眼したり、断食して10キロ近く減量したり、オーガニック食したり、お灸を背中や足にすえてアバタだらけになったり、鍼を目のまわりや手首に入れ込む治療を受けたり、カニの甲羅の粉末や青汁を飲んだり、なわとびを一日千回を毎日したりなど藁にもすがる思い出あれこれ試みても進行は止まらず、ついに現実を受け入れて39歳で盲学校に入ってリハビリの道を選んだのであった。それからもドタバタしながら今日に至っているが、人生とはドタバタ劇かなと思った次第である。そういう自分の人生を深めながら歩んでいく、これこをが‘仏の御命’だと思っている。すみれはすみれでよし、バラはバラでよし。89歳のプログラマー、若宮正子さんのいうように、他人との比較をやめることが自分らしく生きる一歩ということである。
‘りおちゃん’は病気のない体で生まれてきたかったという。それでもそういうつらい病気の体を真正面から受け止めて今を前向きに生きていこうとする姿は、われわれおとなに対して生きることの意味を問うているように私は思う。以前、‘奇跡のバックホーム’で元阪神の横田慎太郎さんを取り上げたことがあったが、まさに‘りおちゃん’はあの横田さんとまったく同じ輝きだと思った。死の淵から蘇った人は人生を達観するのであろうか。
あるならあるでよし、ないならないでよし。同じ人生なら明るく楽しく生きたいものである。
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