37.‘かぐや姫’に思う  神谷湛然 記

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  37.‘かぐや姫’に思う

 「竹取物語」という、平安時代に書かれたといわれる物語がある。‘かぐや姫’で有名な作品である。私はここ最近、大和朝廷成立前夜から平安にかけての日本古代史に深い興味を覚えて関連の本を何冊か読み、そこから「竹取物語」にも直接触れたほうがよいかと思って、原文を何人かの現代語訳と合わせながら読んでみた次第である。
 話の筋は以下の通りになろうか。

 竹取を生業とする翁に竹の中から拾われて大切に育てられてわずか3カ月で成人となったかぐや姫は、育て親の翁夫婦が有力者への結婚斡旋をして求婚に言い寄る貴公子たちに無理難題を吹っ掛けて撃退し、さらに国王たる天皇に対しても‘殺されてもかまいません’と言って宮仕えを拒否する。しかし、天皇は貴公子たちと違ってかぐや姫を我が物にすることを諦めてかぐや姫と手紙を交換して恋を楽しまれる。いよいよある秋の満月の時、帰るべき月の宮から迎えが雲に乗ってやってきて、かぐや姫は天皇に手紙と不死の薬を天皇の勅使に託し、天の羽衣を着て昇天してゆく。手紙と不死の薬を受け取った天皇は、かぐや姫のいないこの世では永遠の命を生きても意味がないと言って、部下たちに命じて一番高い山である富士山に上らせて頂上でこの手紙と不死の薬を燃やさせた。

 この物語のポイントは、かぐや姫を迎えに月の宮から来た月の王の言葉、翁たちへの‘おさなきひと’と‘きたなきところ’だと私は思う。地位や名誉・富などに明け暮れる現世を疎んじてあの世の永遠の美への憧れを感じずにはいられない、‘厭離穢土’思想であろうか。紫式部はこの竹取物語をうけて「源氏物語」で最後に光源氏が出家するという形で具体的な解決策を示したとある古典研究者は指摘している。
 この世ははかないもの、つたないものとみる思想は、‘祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり’の平家物語、‘ゆく川の水の流れは絶えずして・・・’の方丈記とも同様であろう。東西を問わず、いつの時代でも権力をめぐって謀略・奸言虚言・謀殺暗殺などの権謀術数が渦巻くものである。日本古代史でも権力をめぐって血を流す争いが皇族同市でも起こっている。余談であるが、645年の‘大化の改新’は、律令政治確率と百済一辺倒外交を是正して全方位外交を進めていた蘇我入鹿を、百済皇子である豊璋(ほうしょう)が中臣氏の家系に紛れ込んで中臣(のちの藤原)鎌足になりすまして中大兄皇子(のちの天智天皇)を唆して切り殺させた事件であり、その時に口実として持ち出した山背大兄皇子一族絶滅事件は実在しない山背大兄皇子なる架空の人物を捏造して蘇我氏一族を極悪人に仕立て上げて、出自のあやしい‘藤原’を喧伝するための藤原不比等による歴史捏造という説がある。蘇我氏は悪者であり、中大兄皇子と中臣鎌足は正義の人と学校で教え込まれた私には衝撃敵であった。事実はどうなのか、いろいろな説も推測であるのだか、ただ言えることは、大勢の反対を押し切って無意味無益な百済救援をして唐・新羅連合の大軍に完敗して日本が滅亡の危機に瀕しした白村江の戦い(663年)に天智天皇と藤原鎌足が深く関与したこと、持統天皇以降に藤原一門がいろいろな謀略事件(長屋王の変、菅原道真の大宰府左遷など)を起こしながら実権を掌握していったことと朝鮮を統一した新羅とは完全に敵対して交流を持たなかったことは確かである。
 ともあれ、竹取物語は民衆も含めて権力・地位・名声・富の争奪戦に明け暮れる現世を痛烈に批判して純粋な情を願い臨んだといえるかもしれない。そういう閉塞した藤原一門による貴族政治を打破したのが平安末期の平家と源氏の抬頭と鎌倉幕府と鎌倉新仏教の誕生であろう。身分・地位・富・性別に関係なく誰もが信心すれば成仏するという鎌倉新仏教の教えは‘かぐや姫’の心ではなかったかと私は思うのである。しかし、現実の人生を疎んじる傾向が拭い切れず、そうかといって‘円頓ころがし’に陥って欲望丸出しに走った人もいた。‘純粋な情’とは何なのか。実はそれを現実世界にあることを既にある人たちは提示していると思う。
 先日、縁あってハイエルダールの「コンチキ号探検記」を読んだ。1947年、ポリネシア人の民族移動の新説を実証するべく、ノルウェーの学者ハイエルダールが南米のペルーから南太平洋の島までをコンチキ号と名づけたいかだで航海した時の貴重な記録である。著者を含めた6人のいかだの乗組員たちがそれぞれの特技をいかしながら協力しあって大海原を大自然と戦い、同和し、挑戦し、親しく遊び戯れる。大自然の偉大さとそれによって生かされている命の有難さ、生命への力強い讃歌に溢れたこの記録は今日でも世界中に名著と賞賛されている。私がこの本に一番心が引かれたのは、年齢や肩書・地位・生まれに関係なく乗組員6人全員がお互いに尊重しあいながらそれぞれの持ち場を責任もって遂行し、助け合いながら全員が最後まで生きて成し遂げたことであった。到着したポリネシアの人々との交流の場面も印象的である。私はそこに‘純粋の情’を見るのである。
 あまりにも高度に発達した科学技術文明の現在、竹取物語で月の宮の王が‘おさなきもの’‘きたなきところ’の世界である限り、絶え間なく戦争が生産され、人類にとって住みづらい地球環境を作っていくようである。ウクライナ戦争にしろ、イスラエル・ハマス戦争にしろ、これから起きるであろうとされる台湾有事にしろ、共通して言えることは、一族繁栄のみを求めた藤原一門と同様に、ごく限られた特定の集団の利益しか考えていないことではないだろうか。人類に最も近い種とされるチンパンジーは隣集団のチンパンジーに殺戮的な攻撃をしてオスや子供を皆殺ししてメスたちを自分の集団に組み入れることが指摘されている。これが人類にも本能としてあるのではないかという人がいる。しかし、チンパンジーから分かれたといわれるボノボ(ピグミーチンパンジー)は他集団に対して最初は威嚇しながらもお互いに体をこすり合わせて親愛の情を作って和睦していくという。この違いは、比較的まばらな森林地帯のサバンナに生きるチンパンジーと深く豊かな森に住むボノボという環境の違いにあるかもしれないといわれている。ここで思うのは、砂漠の民の厳しさと自然の豊かな恵(森や海など)にめぐまれた民のおおらかさである。
 人類は豊かさを求めて山越え谷超え海超えて世界中に拡散した。そして、国連は2023年には世界人口が80億人を超えたと報告している。今世紀末に110億人となってピークを迎えて減少していくだろうと予測している。森はさらに破壊され続け、温暖化は進んで熱帯化して海面上昇とそれによる島々の消失・低地の都市の水没が予想されている。私の今住んでいる大阪は古代史の時代では生駒山の手前まで海であったといわれている。問題はその変化のテンポが以前は数千年数万年だったのが今日では数十年数百年単位になってきているということであろう。その前に数年後数十年後に核戦争が世界的に勃発して生き残った生命も残存放射能によって滅していくのであろうか。
 恐竜は中生代に1億5千万年の間、繁栄した。親類は新生代鮮新生の初頭の500万年余り前(700万年前という説もある)に誕生し、現生人類のホモ・サピエンスが生まれて20万年となる今の時代に終焉を迎えるのであろうか。
 地球環境あっての生命、大自然あっての人間という原点に立つべきことを権力者をはじめ人々はわかっていないところがあるように見受けられる。今取るべき緊急の方策ははっきりしている。それは、日本も核兵器禁止条約に参加してアメリカをはじめとする核兵器保有国が核兵器完全破棄をすることである。これこそが脱炭素よりも優先すべきことであると私は考える。なぜなら核兵器こそ人類破滅の元凶といえるのではなかろうか。日本の政治を見るき、あまりにもアメリカべったりに唖然とするばかりである。中国・ロシア脅威論を煽り立てる前に独自の外交ができないのか、苛立たしい限りである。
 だだし、脱炭素の取り組みは後回ししてかまわないと言っているのではない。莫大な放射能の瞬間的発生と大量拡散による危機に地球が瀕していることが、二酸化炭素の蓄積による影響より莫大であり、直近的であるということである。
 なお、脱炭素に原子力発電が有効という考えが日本ををはじめ世界的になっているようである。ここには、二酸化炭素削減ばかりに気がとらわれて大量に発生する放射能廃棄物という核のゴミの処理問題、地震や火山噴火などの自然災害・戦争などの人的災害に対するリスク管理の問題、運用コストと建設コストを含めたコストでは原発が再生化エネルギ(太陽光や風力など)に比べて割高になっていること(アメリカでは2020年の新しい原発は太陽光や風力の4倍のコストがかかると米国のエネルギー関連投資会社Lazardは算出しているという)なのの指摘がされている。日本政府が今持ちだしている先進的小型原発は経済コストで競争力を失っているとある研究者はいう。1軒1軒の家の屋根に太陽光パネルを供えつけて電気を自家発電を基本として足りないものを他から補うとするだけでもエネルギー事情と環境問題の解決へ前進するようにおもわれるのであるが、いかがであろうか。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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