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42.祈るということ
前稿では、能登地震と羽田事故のことを書いたが、新春の初詣でにちなんで、祈るということについて書いてみたい。
せっかく、新年に当たって良き年となりますよう無事と幸せを祈ったのに、もしくは祈ろうとしたのに、しょっぱなから大変な禍、これじゃ、神も仏もあるもんか、と思っている方もおられるかもしれない。
以前、横浜で往診マッサージの仕事をしていたとき、あるドライバーさんが、‘神社に初詣に行って拝んだのに、えらい大変な年になってしまった。神も仏もないわ。今度からはもう行かない。’と怒っていたのを聞いたことがあった。良き年になりますように、と毎年祈願しているのだが、実際は毎年大変だわ、というのが、みなさん、実感ではないかなと思う。
平々凡々たることが実はもっともありがたいことだ、と聞いたことがあるが、物の値段はどんどん上がるし、お金はたまらないし、政治家は国民に税金を増やそうとしながら自分たちは裏金作って税逃れしたり、中国や北朝鮮・ロシアから攻められるかもとある政治家やメディアなどはいうし・・・、ほんまに大丈夫かいな?といった気持ちになってしまいそうである。僧侶や神官などの宗教家もプロとして真剣に祈願なされることだろうけど、効き目はあるそうには私には思えない。一般にはわけのわからない文句をほざいてお布施やお祈り代をふんだくるように思えてしまう。私は、宗教家からして、祈りの意味を間違ってとらえていることに問題があることを指摘しておきたい。
祈り願うということは、神仏に対して今こうして生きてあることに感謝し、これからの人生の歩みにたいして誓いを宣べるということだと私は解釈する。人生をよくするのは神でも.仏でもなく、その人生を生きる本人そのものだからである。‘○○できますように’‘○○ありますように’とのスケベー根性ではほとんどが裏切られること、間違いなしであろう。
仏典には、‘願わくは・・・’とか‘こい願わくは…’’‘誓願して・・・’とかの字句がある。仏にお願いして・・・と解釈するのではなく、○○できるよう精進・努力することを誓う、とすべきだと思う。そこにこそ、無量寿経の法蔵菩薩(阿弥陀如来の前身とされる)ではないが、力強い人生への歩みが踏み出されるのではないだろうか。
私は、神仏に祈るときは、思うことも願うこともなく、無心で礼拝している。純なる心、般若心経のいう‘空’といえるだろう。そのありようは、そのときそのときの状況に従がって最高の生命の輝きを放つよう主体的に生きることだと思っている。
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