46.‘当たり前’に思う  神谷湛然 記

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  46.‘当たり前’に思う

 ‘当たり前’という言葉は、疑うことなく全く当然のことだという意味で使われていることは間違いないだろう。
 青い空、青い海、緑の風景が目に入り、不自由なく空気を呼吸して歩いている。そして、これが永遠不変のものであるかのように思ってしまうのは私だけであろうか。足元を支える大地は、地震などの災害があったとしても厳然として確固たるものとしてあるように思う。そして、私たち人間は、頭では地球史ではほんの最後にひょっこりと出現したに過ぎないと理解していても、感覚的には宇宙の最初から存在していて、これからも永遠に存続していくような思いがする。なぜだろうか。
 最新の宇宙科学・地球科学は、私たちの当たり前という観念を壊し続けている。
 宇宙は唯一ではなく、無数にあって、私たちの住む138億年という小さい宇宙の話ではないというのだ。ユニバースではなく、マルチバースだというのである。そして、私たちには想像できない自然法則がそれぞれあるかもしれないと推論されている。
 地球の歴史も破天荒きわまりないものだったことを今の地球科学・生物化学は明らかにしている。
 46億年前に誕生してまもない地球に火星ほどの惑星が衝突して月という衝撃塊が生まれ、地球は全身火だるまのマグマオウシャンになったという。生命のタネと水はマクマオウシャンののちにやって来た彗星や隕石によってもたらされた可能性が高そうだという。生命の最初の形態は今のところ、深海底の熱水噴出口に発生したイオウやメタンをエネルギーとする古細菌(こさいきん)とされている。また、地球は7億年ほど前を最後に何回か赤道も含めて分厚い氷に覆われた全球凍結(スノーボールアース)に襲われたらしい。逆に、恐竜の栄えた中生代のように、北極にワニが住めるほど北極も南極も氷がないほど暑い地球があったことも明らかにしている。大地は、木の葉のようにさまよいながら、ある時は集合して一つの超大陸を形成し、分離してバラバラになるのを繰り返しているという。また、地球生命は幾度となく絶滅に瀕し、とくに有名なのが、生命の90%が死に絶えたといわれる2億5千万年前のペルム絶滅と巨大隕石落下によって恐竜が全滅したといわれる6500万年ほど前の絶滅だろうか。
 科学は未来をシビアに予測する。いつかは私たち人類は滅び、さらにのちには生命のいない死の惑星となり、最後には赤色巨星となる太陽に呑みこまれるだろうと。近未来的には、人間活動による二酸化炭素の増大によって今世紀から来世紀にかけで温暖化が進み、海抜の低いところにある都市は海面上昇によって海に埋没するだろうと警鐘を鳴らしている。いや、その前に核戦争や核爆発によって人類は終焉を迎えるのだろうか。
 ただ言えることは、今この一瞬において私たちが生きてあるということだ。途方もない時間と空間の中で、計り知れない無数の偶然の積み重ねの上に私たちがいまここに存在していることである。
 私たちはなぜ生きているのだろう。何のために生きるのだろうか。
 「宇宙戦艦ヤマト」を描いた漫画家の松本零士は‘生きるために生まれてきたのだ’と言った。人々はいろいろな理由をあげるのを耳にする。私は、生きている実感を感じるために、もしくは、忙しさにかまけることによってそれを人生としているように思える。
 生命科学では、生命とは、有用な化学物質を細胞内に取り入れて化学反応をおこし、それによってエネルギーを得、無用になった化学物質を細胞外に排出するという一連の代謝活動を継続することだとしている。私たち人間は、酸素を吸い、飲み食いしてエネルギーを作り出し、要らなくなった二酸化炭素や物質を息の吐き出しや糞尿の排便という流れを繰り返しながら命をつむいでいる。そして、その飲み食いの糧を得るために、狩猟や漁労・採集・農牧畜による収穫ないし、労働などによって得た価値(通貨など)でもっておこなっている。
 何気なく不自由なく吸っている酸素も、あるレベル以下になった時、私たちは生きていけない。逆に高酸素でも過剰な酸化作用によって生命に害をもたらすことがいわれている。なお、低酸素とは、酸素濃度が低いということではない。単位体積あたりの酸素の密度が低いということである。エベレストも海抜ゼロメートルと同じ酸素濃度は21%である。しかし、エベレストはゼロメートルの三分の一の気圧しかないために空気の密度がかなり薄いために酸素を必要とする生命にとっては低酸素となる。水という存在がないならば私たちも含めて生命は生きてゆけないことも明白である。
 程よい空気、程よい気圧、程よい温度、程よい環境のおかげで私たちが生きてあることの、なかなかあり得ない有り難き無数の偶然の産物の恵みによって私たちは今ここにあることの重みを噛みしめるべきではないだろうか。大きな大脳を持つ私たち人類は他の生物と違って、そのアタマのために自然から離れて暴走しようとするところがあるようにみえる。あり得ない命を頂戴している私たちは、宇宙と大自然からの恵みに感謝の心を忘れずに人生を生きたいものである。その感謝がある限り、私たち人間はそれぞれの好みに従がって思いっ切り人生を表現したらよいと思う。ただ私自身は、今ここに存在していることに無限のはかなさとともに無限のまたたきを思わずにはいられない。松本零士ではないが、生きてあるだけで‘神の栄光’に包まれているのではないだろうか。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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