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50.輪廻について
輪廻は、仏教も含めたインド思想の重要なキーワードとなっている。アーリア人のもたらしたヒンズー教に源泉があるとされ、のちに生まれてきた仏教やジャイナ教に多大な影響を与えて、詳しく展開されることになったといわれる。
輪廻はサンスクリット語のサンサーラの漢訳といわれる。サンサーラは、‘さまよう’とか‘流れる’という意味とされ、あるものが生まれ変わり死に変わりいろいろな姿に転生(てんしょう)していくことだといわれる。虫になったり、けものになったり、花になったり、いろいろな人間になったり・・・。前世の行いの報いとして今世の人生があり、この今世の行いによって来世にどんな姿と境遇になるかが決定されるという。カルマ(業・ごう)と因果応報思想として語られている。霊界を信ずる人たちは、この論理でもって、亡き人への丁重な供養と現世での‘善い’行いを献身的にするよう主張している。
インドでは、カーストに生きる人たちは最高位のバラモンの生活を理想として、菜食・禁酒の‘浄なる生活’をできるだけして来世により高いカーストに生まれ変わろうとしているようだ。しかし、実際のところ、カエルの子はカエルであるようだ。いくら頑張っても親から子へと同じカーストを引き継いでいっている。そのためか、本当にカーストから脱却をしようとするためには、ヒンズー教を捨てて、カーストを否定するキリスト教や仏教などに改宗するインド人が少なからずいるようである。
冒頭に仏教は輪廻思想を展開したと書いた。しかし、仏教は本来、輪廻を相手にしていなかったと考えられる。釈尊は、原始仏典の一つとされる法句経によれば、尊い人は行いによって尊いのであり、卑しい人は行いによって卑しいのだといったという。最下層の不可触民であっても、行いによってそのままの身でもってバラモンとらるのだともいっている。前世とか来世とかに関係なく、今ここに真理に目覚めることで、出身・身分・男女・肌色に関係なく誰でも最高最上位の身となるのだということである。
そもそも輪廻思想は、インドに侵略してきた白色系人種であるアーリア人による支配を正当化するために作られたカーストを根拠づけるための論理ではなかったかと私は思う。いくら‘善い’行いをしても遺伝的に家系的に同じカーストから逃れていないようにみえる。ある人は、現世に‘善い’行いをすれば死んで肉体から離れた魂は来世には高いカーストの家柄の新しい肉体を得て生まれ変わるのだというかもしれない。しかし、それは私には詭弁のように聞こえる。そもそも、そんな魂は、将来に赤色巨星化していく太陽に併呑されるであろう地球になんの意味があるのだろうかと思う。魂とは現に生きているものにとっての‘思い’ではないかと考える。
仏教には、ジャータカと呼ばれる本生譚(ほんしょうたん)がある。釈尊の前生での物語を集めた説話だ。仏教を拡げるために輪廻概念を用いて釈尊の偉大さを喧伝されたといわれる。しかし、これが仏教にある意味で、悪しき汚点を残したのではないかと考える。つまり、オカルト的な霊魂思想を育てたということである。
霊魂はあるのか? 死んだらどこへいくのか? 来世はどのようなものか? 釈尊はこれらに対してこう答えられたといわれる。
ーー 私には霊魂もあの世も見たことも経験したこともないから分からない。ただ、今、あなたは体に刺さっている(苦悩という)毒矢を一刻も速く抜き去らないと全身に毒が回って大変なことになる。 ーー
今世で苦にが絶えない人生になっているのは前世の報いとは釈尊は一切いっていないことだ。前世がどうだろうと、大切なことは今ここで解脱することだといっていたはずである。
輪廻思想を釈尊の精神に立って捉え直したのが日本の鎌倉新仏教だったと思う。苦悩にまみえる人生の姿を‘三界六道輪廻’という概念でとらえ直したということである。‘三界’とは、欲望にまみれる欲望の世界である欲界、物質世界である色界、学問や美術・思想などの精神世界である無色界の三つをいう。‘六道’とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界をいう。地獄とは艱難辛苦の世界、餓鬼とはものほしさに奔走する世界、畜生とは食べることしか頭にない世界、修羅とは競争に明け暮れる世界、人間とは人らしいといわれる世界、天上とは有頂天になってのぼせあがっている世界と定義できよう。人生が苦悩の連鎖でいろいろな世界をぐるぐる回りながらもだえているさまを‘三界六道輪廻’と説いたのである。では、‘三界六道輪廻’から抜け出すにはどうすればよいのだろうか? 地獄のときは地獄を勤め上げる以外に道なしと心得て地獄を勤め上げるということである。
ゴールデンウィーク明けに、私も不用心のためについに新コロナウィルスに感染してしまった。はじめ、単なる風邪なのかと思ってお気に入りの大正製薬のパブロンをいっしょうけんめい服用していたが、ますます悪くなり、3日後には今までに経験したことのないのどの激痛と38度以上の熱・大量のタンと唾液がしきりに出て水すらも口にできず、声もたえだえになってしまった。ひどい倦怠感に襲われ、ハアハアと息苦しかった。4日目にして妻の手助けで最寄りのクリニックに受診。診断の結果、明白なコロナ陽性。発症して3日以内ならドコーバを処方できるのだが…と医者に言われながら、今回はいわゆる解熱鎮痛剤・咳止め・タン止め・のど痛緩和の漢方薬などいろいろな薬を5日分もらって、やっと服用を終えた今日(5月16日)にほぼ回復となった次第である。しかし、まだ味覚異常が残る。しょうゆ味やソース味が舌にきつくあたって塩苦く感じる。好きな唐揚げや焼きそばがまずい。味覚回復にはしばらくかかるようだ。それにしても、なにが‘単なる風邪’だ?! ‘正義の味方’という番組によく出ている木村盛代という医者は‘コロナは単なる風邪’と言い張る。とんでもないやつだ、あんたこそコロナにかかって経験してみな!と心の中でほざきながら、本当につらい十日間でした。もう二度とかかりたくないものである。
ともああれ、おかげさまで、つらいコロナという‘地獄’を勤め上げることができたという次第である。
なお、仏教では、‘六道’の上に、‘仏道’というほとけの世界を設けている。輪廻から解脱して執着はら離れた自由自在の境地とされる。その世界は六道とは別の独立した世界のように思われる。実は、仏道はという世界は地獄等々の六道の中で現実に実現されるべきものであるはずである。なぜなら、華厳経ではないが、心・仏・衆生、是れ三つは差別なし、だからである。生身のいのちという‘心’こそ仏そのものであり、その生身のいのちを私たち衆生は本来的に生きている。お寺の本堂の奥まったところで鎮座している仏像みたいな、無味乾燥・無表情の木ぼっくりではない。生身のいのちを生きている私たちが生きている‘三界六道’という世界で、生身のいのちをいのちとぢて自由自在に働かせていくことこそが、‘仏’の実践ではないだろうか。 三界六道こそわが生きる世界と心得て、大地をしっかり踏みしめて自己を自己として生命を輝かせて生きたいものである。
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