/
51.三界六道について
前稿で、三界六道について触れたが、さらに考えてみたいと思う。
まず、三界である。欲界とは、欲望にとらわれた世界とされる。欲には五欲という五つの欲に分けられるとされ、一つの解釈は、眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官によってとらえられた感覚にとらわれて執着したものとされ、もう一つの解釈は、財欲・色欲・飲食(おんじき)欲・名誉欲・睡眠欲とされる。要は、私たちは多かれ少なかれ欲をもって生きている。そういう欲望のない世界を理想と思っている人たちがいるようだが、私からすれば、それは死人であって生きている生命に対する否定以外、何ものでもないと考える。
色界とは物質世界ということだが、私たちの肉体だけでなく、大地・水・熱・空気など物質で構成される世界をいう。私たち生命の土台ともいえよう。
無色界とは、眼耳鼻舌身意の‘意’にあたるもので、意識世界ないし精神世界といえる。イメージしたり、思いめぐらしたり、価値判断したりなどである。学問や芸術・美術、哲学・宗教・思想などもその世界にはいる。
これらの三界は別々のものでもないし、欲界はもっとも下劣で、無色界はもっとも上等なすぐれた世界というものでもない。瞑想の三段階とする解釈もあるが、私には所詮、意識観念のこねくり回ししか過ぎない瞑想をでっち上げることしか意味のないように聞こえる。三界とは、私たちが生きている物質世界と精神世界のなかで七転八倒する現実世界のことだということである。
六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことは前稿で書いた。そして、この六道こそが私たちの生きている世界の様相だとも述べた。では、なぜ六道とは別に設定されている‘仏’という道の世界を私たちの生きている世界に含めないのであろうか。それは、生身のいのちという‘仏’を本来的に生きている私たちが、生身のいのちに立ち返ったならば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道がそのまま‘仏’の世界に転じるからである。すなわち、‘即身成仏’ということだ。‘仏’は六道とは別にあるのではなくて、六道のなかに実現される世界だということである。
釈尊は、行く先々でバラモン教から厳しい迫害を受けたといわれる。弟子の目蓮尊者のように殺された人もいた。釈尊はまさしく命の危険につねにさらされながら布教伝道にいそしんだ。釈尊にとっては地獄の世界で生きてこられたといえよう。そういう地獄のなかで、たかだかとカースト否定と一切衆生救済を掲げて迷妄打破に身を捧げた。これこそ、まさしく地獄のなかで燦燦と輝くダイヤモンドではなかったか。釈尊は地獄を‘仏’の世界としてあらわしたのであった。
三界六道は私たちの生きている世界のことであって、その生きている世界にこそ、生きている私たちが生身のいのちを生身のいのちとして自由自在に働かせることこそが、生身のいのちである‘仏’が実現されるということである。私が私として思いっきりいのちを燃やす。生命を大いに讃嘆して生きたいものである。
コメント