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14.正法眼蔵 現成公案(げんじょうこうあん)その1 神谷湛然 意訳
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「正しい教えの眼目」 ‘いかに生きるべきか’
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諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり、
(すべての有り様を諸法実相という生身のいのちから見た時、迷っている姿とか悟っている姿があり、修行する姿があり、生まれるということがあり、死ぬということがあり、無数の生身のいのちが存在し、その生身のいのちに生きながらそこから離れて迷っている人たち、すなわち凡夫と呼ばれる人たちの姿がある。)
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
(また、あらゆる存在が皆、無我という空相から見た時、迷いという実体はなく、悟りという実体もなく、なにかこり固まった生身のいのちという実体とかいうものはなく、迷っている人たちという実体もなく、生という実体、死という実体などない。すべてが現象だからだ。)
仏道もとより豊倹(ほうけん)より跳出(ちょうしゅつ)せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏(しょうぶつ)あり。
(生身のいのちという宇宙生命は元来、優劣・上下・大小・表裏・有る無しなどの二見を飛び越えてそれがそれとしてあるがゆえに、生というものと滅というものが一体であり、迷というものと悟というものが一体であり、まよっている衆生と生身のいのちに生きる覚者たちとはコインの表裏のようなもので、別々のものではない。‘心仏及衆生 是三無差別’であり、‘色即是空 空即是色’である。すべてが生身のいのちばかりである宇宙生命の発現だからだ。)
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。
(しかも、そのようであっても、花を見て美しく思い、鼻が散ると物悲しく感じ、草は例えば庭にぼうぼう生えれば見苦しくむさくるしく思う、そういう感情は感情として当然あってよいのだ。そしてそれはそれとしておわりである。さらさらと流れゆく水のごとしである。)
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
(自分の思い量り・はからいでもって、あらゆる存在を解明しようとすることを迷いという。自分を宇宙生命のありように自己のすべてを投げ入れて、自分の思い量り・はからいを捨てて生身のいのちにすべてをまかせきること、すなわち絶対他力こそが悟りである。)
迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷(めいちゅういうめい)の漢あり。
(迷いを脱して大いなる生身のいのちに目覚めたものを仏(覚めた人)という。生身のいのちにすでに生きていながら、そこから遊離して大いに惑乱するのが衆生といわれる凡夫である。悟りとは生身のいのちを生きるがゆえに、生命の働きは連続した姿であるがゆえに、更に悟った上にも悟りを得る人がいる。絶え間ない‘仏向上’である。また、迷いのなかでさらに迷いを重ねる人もいる。生身のいのちにすでに出会いながらそこから離れて惑乱しているなかで、なんとか生身のいのちに出会おうとしてもがきながら人生の解明に一心不乱にいそしむ人がいる。)
諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
(生身のいのちに目覚めた人たちは、まさしく自ら生身のいのちに目覚めたとは自覚しない。あらゆる有りようである宇宙生命から自覚させられるのだ。おのずから生身のいのちにあることを実現させられているのだ。)
身心を挙(こ)して色(しき)を見取(けんしゅ)し、身心を挙して声(しょう)を聴取するに、したしく会取(えしゅ)すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。
(まっさらな目でもって物を見、まっさらな耳でもって音や声を聞いて、そのものをそのものとして認識する時、認識する主体と認識される客体との関係ではなく、池の水に映る月のような関係ではない。見るままに、聞くままに分別されることなくそれがそれとしてあるだけだ。主体客体以前の、目の前のものと一枚になっている。釈尊が菩提樹の下で坐禅中に、目にふいに明けの明星が差し込んだ時、釈尊は‘山川草木 悉皆成仏’と快哉したといわれる。その時、釈尊が明けの明星を見るという関係ではなくて、釈尊そのものが明けの明星となり、明けの明星が釈尊そのものとなtったのだ。釈尊が明けの明星なのか、明けの明星が釈尊なのか、まさしく、釈尊と明けの明星は隙間なく完璧に一枚となったのだ。これを、一方を照すれば他方がくらしの意味である。)
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