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17.正法眼蔵 現成公案その4 神谷湛然 意訳
身心に法いまだ参飽(さんぼう)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。
(自己の身心が生身のいのちにまだ至っていないとき、生身のいのちに満ち足りて生身のいのちへの参究は終わったと錯覚する。自己の身心が生身のいのちでいっぱいになったとき、自分は生身のいのちにみちたりていないように思う。ものだ。生身のいのちとは、転変する宇宙生命という広大無辺なありようであって、人の頭で理解できるちっぽけなものではない。生身のいのちを感得した人は、なまみのいのちへの参究が終わりのない旅であることをますます知らされるのだ。)
たとへば船にのりて、山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。
(例えば、舟に乗って、山など見えない広大な海に出て周囲を見れば、ただ地平線がゆるやかに弧を描くようにまるく見えるだけで、海よりほかに見える姿などないようなものだ。)
しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり。
(しかれども、この広大なる海は、まるいとか四角とかだけのものではない。海の姿・働きは無限で、私たちの頭ではとらえることのできない大いなるありようだ。)
宮殿のごとし、瓔珞(ようらく)のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
(海は、魚には宮殿のように見え、天上高くから眺めるものには透き通った紺碧のヒスイの宝石のように見える。それを、人にはただ、自分の見える限りでしばらくの間、まるく見えるだけだ。)
かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを、見取会取するなり。
(この海と同じように、すべてのありようもまた、無限の姿と働きを持っているのだ。塵のようなちっぽけななかにも私たちの思いをはるかに越えた無限の姿と働きがあるのだ。これを、華厳経では、塵埃も仏国土なりと喝破している。それでも、私たちは、生身のいのちへの参究・認識の及ぶ限りでもって生身のいのちを感得し理解していくのだ。)
万法の家風をきかんには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下(じきげ)も一滴もしかあるとしるべし。
(すべてのありようの姿と働きを知るには、それが四角や円に見えるほかに、私たちの知らない姿・働きが海のありようや山のありようにも限りなく多くあり、無限の多くの世界があることを知るべきである。自分のわかっている世界がすげてではないのだ。自分の足元にも、一滴の水でさえも、私たちの知っている以上のはるか無限の姿と働きがあることを知るべきである。公園を歩くとき、一足の裏には15万個もの微生物が存在しているといわれる。しかし、その微生物のおかげで木々や草花が豊かに茂っている。一滴の水も集まれば、川となり大海となる。一滴は雲となり雨となり、私たちの体を潤している。ほかに私たちの認識の及ばない無限の姿と働きがあるはずである。私たちは今もっている感覚・意識でもってわかっているだけである。私たちのわかっている以上の無限の世界のあることをよく心得ておく必要があるのだ。)
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