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18.正法眼蔵 現成公案その5 神谷湛然 意訳
うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
(魚が水のなかを泳ぎ行く時、どこまで泳ぎ行っても果てしなく水が無限に広がり、鳥が空を飛ぶ時、どこまで飛んでも果てしなく無限に空がつづいている。)
しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只 用大のときは使大なり、用小のときは使小なり。
(しかれども、はるか以前から、魚は水から離れて生きることはなく、鳥は空を離れて生きることはない。ただ、身体が大きいものは命を大きく使い、小さな身体のものは命を小さく使う。身の丈に応じて命を使っている。)
かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふことなく、処々に蹈翻(とうほん)せずということなしといへども、鳥もしそらをいづれば、たちまちに死す。魚もし水をいづれば、たちまちに死す。
(このように、一尾一尾の各々の魚、一羽一羽の各々の鳥は、水や空を限りなくどこまでも自由に泳いだり飛んだりしても、鳥がもし空から出ればすぐに命を失い、魚も水から出ればすぐに命を失って死んでしまう。)
以水為命(いすいいみょう)しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。
(水でもって命するものがあることを私たちはすでに理解することができる。空でもって命するものがあることをすでに理解することができる。また、鳥という姿でもって命し、魚という姿でもって命するともいえる。命でもって鳥となし、命でもって魚とするともいえる。魚という姿でもって生身のいのちが現前し、鳥という姿でもって生身のいのちが現前しているのだ。生身のいのちという宇宙生命でもってある時にはそれを鳥という姿で現前し、ある時には魚という姿で現前している。)
このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あることかくのごとし。
(このほか、更に考えを進めて展開することができるだろう。修行という修があり、覚悟という証がある。この修証と命との関係も同様だ。修と証の二つは別々ではなく、共に生身のいのちの姿であるがゆえに、修と証は一体である。生身のいのちの一つ一つの行そのものが同時に、証として生身のいのちを一つ一つを現前しているのだ。修行というありようでもって生身のいのちとなし、悟りというありようでもって生身のいのちとなす。生身のいのちが修行というありようとして現前し、生身のいのちが悟りというありようとして現前しているのだ。)
しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。
(しかあるを、水をすみずみまで完全にわかってから、空をすみずみまで完全にわかってから、水に泳ごうとする魚、空を飛ぼうとする鳥がいたならば、その魚や鳥は水にも空にも泳いでいく道、飛んでいく道を見つけることができず、泳ぐ場所、飛ぶ場所も得ることができない。)
このところをうれば、この行李(あんり)したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。
(この生身のいのちの働く場にどっぷり入ったならば、日々の一つ一つの行いに伴って、生身のいのちという宇宙生命が現前するのだ。この生身の命の働くありようにあれば、日々の一つ一つの行いはそのまま、生身のいのちという宇宙生命の現前なのだ。)
このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。
(この生身のいのちの働きのありようと働く場は、大きいとか小さいとかいうものではなく、自分という主体とか、他者という客体とかいうものではなく、主体と客体に分かれる以前の一枚のありようであり、過去からあるとか、いま現れているものでもない。そのものがそのものとして生身のいのちという宇宙生命を完璧に現前しているのだ。)
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