25.証道歌その3  神谷湛然 意訳

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  25.証道歌その3  神谷湛然 意訳

<証道歌 41>

 或いは是、或いは非、人識らず、逆行順行天も測ること莫し。

 吾れ早く曽(かつ)て多劫を經て修す、是れ等閑に相誑惑(おうわく)するにあらず。

()意訳)
 なにが是なのか、なにが非なのか、厳密には人は知っていない。なにがうまくいかなくて悪いのか、なにがうまくいって良いのか、天も厳密には見分けることはできていない。是が非となったり、非が是となったり、逆行順行もしかりであるのはよくあることである。私のうちにある生のいのちは、はるか昔から永遠ともいえる長い間にその働きを実践してきた。この実践はいい加減に適当に実践の場である‘今ここ’と騙し合いながら誑かし合いながらしてきたものではない。

<証道歌 42>

 法幢(ほうどう)を建て宗旨を立す、明明たる佛勅(ぶっちょく)曹谿是れなり。
 第一の迦葉(かしょう)首(はじめ)に燈を傳う、二十八代西天の記。

(意訳)
 生身のいのちを実践する場をつくり、生身のいのちという宗旨を掲げた。釈尊の説いた生身のいのちは疑うことなくはっきりと伝えられ、六祖恵能大師はこれを受け継いだ。釈尊の第一の弟子である魔訶迦葉が最初に釈尊から生身のいのちという灯を受け継ぎ、そしてインドから来た第二十八代の菩提達磨大師が中国に伝えた。

<証道歌 43>

 江海を歴(へ)て此土に入る、菩提達磨を初祖と爲す。
 六代の傳衣(でんえ)天下に聞こゆ、後人の得道何ぞ數)すう)を窮めん。

(意訳)
 インドから海越え河越えて中国にやって来た菩提達磨を中国での初祖とし、五祖弘忍大師が六祖慧能大師に授けた伝衣の話は天下に知れ渡っている。その六祖から生身のいのちと一枚になることを得た人は数知れない。

<証道歌 44>

 眞をも立せず妄本(もと)空なり、有無倶(とも)に遣(や)れば不空も空なり。

 二十の空門元著(じゃく)せず、一性の如來體自ら同じ。

(意訳)
 真理を掲げることもせず、妄想ももともと実体としてありはしない。有と無ともに捨て去れば、不空も空である。生身のいのちは、‘空即不空 不空即空’というダイナミックな働きなのだ。二十種類もあるといわれる空の教えにもはじめから執着しない。一つのものの本質は生身のいのちそのものとおのづから同じである。

<証道歌 45>

 心は是れ根、法は是れ塵、兩種(りょうしゅ)猶お鏡上の痕の如し。

 痕垢(ごんく)盡き除いて光初めて現ず、心法雙(なら)べ亡じて性則(すなわ)ち眞なり。

(意訳)
 生身のいのちは本体であり、その本体からあらわれてくるいろいろな現象(目や耳などによる感覚世界・思いや観念などによる意識世界)は塵みたいなものだ。生身のいのちと現象との関係は、生身のいのちという鏡の表面につく現象という跡形みたいなものだ。汚れの跡形をきれいさっぱりに拭い除いて初めて鏡にまるごと光が現れる。すでにはからいを亡じている生身のいのちとともにいろいろな現象のありように対してもはからいを亡じてすれば、あらゆるありようの本本質が生身のいのちという真が現れるのだ。今ここを一心に勤めることが心法共にならべ亡じて生身のいのちという真が現前するのだ。

永嘉大師證道歌 四十六

 嗟(ああ)末法の惡時世、衆生薄福にして調制し難し。

 聖を去ること遠うして邪見深し、魔強く法弱うして怨害多し。

(意訳) ああ、今は末法という悪い時代だ。人々には福はあまりなくて身と心を整えるのが難しい。
 偉大な人(釈尊など)が世を去ってだいぶ時がたち、邪な考えが深くはびこっている。まどわしたぶらかす魔説の力は強く、生身のいのちを説く力は弱くして恨みそしりを受けることが多い。

<証道歌 47>

 如來頓教の門を説くことを聞いて、滅除して瓦のごとく碎かしめざることを恨む。
作(さ)は心に在り、殃(は)は身に在り、怨訴して更に人を尤(とがむ)ることを(須もち)いざれ。

(意訳)
 そんな恨みそしりをする人たちに、生身のいのちと即刻に一枚になれるという教説を聞かせて、その恨みそしりを瓦を砕くようにこっぱ微塵に取り除かせれないのを私は無念に思う。
 所作は心意識の思いから出てくる。むさぼり・怒り・無知という禍いが身にある。だから、恨みそしる人を恨んで仕返して責めてはならない。

<証道歌 48>

 無間の業を招かざることを得んとっせば、如來の正法輪を謗すること莫かれ。
 栴檀林(せんだんりん)に雜樹無し、鬱密深沈として獅子のみ住す。
 境靜かに林間(かん)にして獨り自から遊ぶ、走獸飛禽皆遠く去る。

(意訳)
 無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないならば、生身のいのちの説法を誹謗してはならない。
栴檀という香木の茂る林には雑木がない。鬱蒼としてしんしんとしたなかに、獅子のみ住んでいる。静かな世界で悠然とした林のなかで、ひとり自分自身でもって遊ぶ。その獅子に怖れをなして走る獣も飛ぶ鳥も遠く去ってしまう。

<証道歌 49>

 獅子兒(じ)衆後(しりへ)に隨がふ、三歳にして便(すなは)ち能く大いに哮吼(こうく)す。
 若し是れ野干(やかん)法王を逐(お)ふならば、百千の妖怪も虛(みだ)りに口を開かん。

(意訳)
 獅子の子供たちが親の獅子に随っていく。その子供たちは三歳で立派に大きく咆哮する。
 もし、未熟な狐が法王たる獅子を追い出そうとするならば、多くの妖怪たちはうるさくがなり立てて警告するだろう。

<証道歌 50>

 圓頓の教へは人情沒し、

 疑あつて決せずんば直(じき)に須(すべから)く爭そふべし。

 是れ山僧人我を逞(たくま)しうするにあらず、修行恐らくは斷常の坑(きょう)に墮(だ)せんことを。

(意訳)
 生身のいのちを欠けることなく完璧に即刻に一枚となる教えは世間の常識や観念・思慮分別などの情識の至るところではない。どこか疑問があって心に決着できないなら、すぐに論争して疑いを晴らすべきである。
 この論争は、修行者が我心をたくましくするためではない。その修行は、世界は死後断滅するという断見とか世界は常に永遠不変だという常見とかの論理の穴に落ち込むのを恐れてである。

<証道歌 51>

 非も非ならず、是も是ならず、之れに差(たが)ふこと毫釐(ごうり)もすれば失すること千里。

 是なるときんば龍女も頓に成佛し、非なるときんば善星も生きながら陷墜(かんつい)す。

(意訳)
 非は不非であり、是は不是である(つまり、‘色即是空 空即是色’である)。これを少しでもないがしろにしたら生身のいのちのありようである‘非不非 是不是’を失ってそこからはるかかなたへ遠ざかってしまう。
 龍王の娘が釈尊の教えに心服して八歳にして即刻に成仏して生身のいのちと一枚になったのは龍女が是だからとし、釈尊の子の善星が釈尊の教えに罵詈雑言を吐いたために生きたまま地獄に堕ちたのは善星が非だからとするであろう。しかし、実はそうではない。不倫の相手の夫を毒殺した勇設は菩薩によって悟りを開き成仏して生身のいのちと一枚になった。なにが是なのか、なにが非なのか、決まっていないのだ。

<証道歌 52>

 吾れ早年より來(このかた)學問を積み、亦た曾(かつ)て疏(しょう)を討(たづ)ね經論を尋ぬ。

 名相(みょうそう)を分別して休することを知らず、海に入つて沙(いさご)を算(かぞ)へて徒(ただ)に自から困す。

(意訳)
 私は若い頃から佛教学問を積み、経文についての解釈や経論を調べてきた。言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきた。いま考えてみると海に入って砂粒を数えるようなもので、いたずらにひとり困惑していたのであった。

<証道歌 53>

 卻(かへ)つて如來に苦(ねんごろ)に呵責(かしゃく)せらる、他の珍寶を數へて何の益かあると。

 從來蹭蹬(そうとう)として虛(みだり)に行ずることを覺ふ、多年枉(ま)げて風塵の客となる。

(意訳)
 かえって、生身のいのちに親切にこう諭されたのであった。自分を置いといて他の宝を数えて何の利益があるのかと。いままで、フラフラしながらむやみに修行してきたことを思う。長い間むなしく世俗の訪い人となっていた。

<証道歌 54>

 種性邪なれば錯(あやまつ)て知解す、
 如來圓頓の制に達せず。
 二乘は精進にして道心なく、外道は聰明にして智慧なし。

(意訳)
 根本が邪な考えならば間違って理解して、生身のいのちに欠けることなく即刻に一枚になる道には達しない。
 説法を聞いて悟ろうとする人や何かの縁で悟ろうとする人は怠ることなく努力するが、生身のいのちと一枚にならんとする道心がない。生身のいのちを知らないで些末な教えを説く人たちは頭は賢くても生身のいのちから授けられるところの智慧がない。

<証道歌 55>

 亦た愚癡亦た小騃(しょうがい)、空拳指上に實解(じつげ)を生ず。

 指を執して月と爲す枉(ま)げて功を施す、根境法中虛に捏怪(ねっかい)す。

(意訳)
 愚かな者たちは言葉の上に解釈をする。月を指し示す指に執着してその指を月と思い込み、むなしくその指にいろいろな意味や働く力を与える。それぞれの感覚器官とそれによるそれぞれの世界のうちに、みだりにあやしげな術を使って弄ぶ
<証道歌 56>

 一法を見ざれば卽ち如來、方(まさ)に名づけて觀自在と爲すことを得たり。
 了ずれば則ち業障本來空、
 未だ了ぜずんば還つて須く宿債(しゅくさい)を償なふべし。

(意訳)
 言葉の解釈によって作り出された世界を意味ないものとして無視すれば、即刻そのまま生身のいのちの現成となる。まさに、そのありようは自由自在なるを表す‘観自在’ということができる。このことがわかれば、過去からの罪や障りがはじめから実体がないことがわかる。このことがまだわからないならば、その過去からの罪や障りを一生懸命償うべきである。

<証道歌 57>

 飢えて王膳に逢ふとも喰(くら)ふこと能(あた)はずんば、病んで醫王に遇ふとも爭(いかで)か瘥いゆることを得ん。

 欲に在つて禪を行ずるは知見の力なり、火中に蓮を生ず終に壞せず。

(意訳)
 飢えているのに王のごちそうを前にして食べることができなければ、それは、病気になって優れた医者に会っても診てもらうことをしないで病がなおらないのと同じである。
 欲望渦巻く欲界にあって禅を行ずるのは、生身のいのちによる智慧の力によるものである。それは、火の中に蓮華が咲きながら決してその蓮華は壊れることがないようなものだ。

<証道歌 58>

 勇施(ゆうせ)重を犯かして無生を悟り、早時成佛して今に在り。
 獅子吼ししく無畏説、深く嗟く懞憧(もうどう)たる頑皮靼(がんぴせつ)。
 但だ犯重(ぼんじゅう)の菩提を障ふることを知つて、如來の秘訣を開くことを見ず。

(意訳)
 勇施は不倫の相手の夫を毒殺するという重い禁戒を犯しながら、その後無生という無一物なる生身のいのちを理解してすぐに生身のいのちと一枚になって今に至っている。まさに獅子の恐れるものなき大いなる吠え声のような、生身のいのちの説法の力である。それを、事理に暗い無知蒙昧の輩はこの有設の犯した罪ばかりを深く嘆く。ただ犯した罪が生身のいのちとの一枚になることへの障害になることのみを知って、生身のいのちが不可思議な秘訣を開示する力によってその罪が消滅して悟りに転嫁させることを見ない。

<証道歌 59>

 二比丘有り婬殺(いんせつ)を犯かす、波離(はり)の螢光)けいこう)罪結を增(ま)す。

 維摩(ゆいま)大士頓に疑ひを除く、猶ほ赫日(かくじつ)の霜雪を銷(しょう)するが如し。

(意訳)
 またその昔、二人の比丘が邪婬と殺人の罪を犯した。持戒第一とされる優波離尊者が怒鳴ってその罪への追及をエスカレートしていった。維摩居士は、優波離にその罪への追及はかえって罪をさらに作ると諭して、二比丘の疑いを即刻に晴らした。まさに太陽が霜や雪をとかすようなものであった。

<証道歌 60>

 不思議解脱の力、
 妙用恒沙また極まり無し。
 四事の供養敢(あ)えて勞を辭(じ)せんや、萬兩の黄金も亦た銷得(しょうとく)す。

(意訳)
 罪を犯したものを転嫁して生身のいのちに一枚にさせる力の不可思議な絶妙な働きは数え知れないほど無限である。だから、飲食・衣服・散華・焼香の四事の供養をあえて労しておこなうのをやめられようか。供養は生身のいのちに生きる人の偉大な力を支えるものとなるのである。一切のありようが黄金となって輝くだろう。人々が自分の感覚や意識する思いの世界を越えて、生身のいのちが生身のいのちとして生身のいのちを現前するのだ。

<証道歌 61>

 粉骨碎身も未だ酬(むく)ゆるに足らず、一句了然として百億を超ゆ。
 法中の王最も高勝、
 河沙(がしゃ)の如來同じく共に證す。

(意訳)
 粉骨砕身の努力してもいまだにその努力が十分に報われない。しかし、一句だけですべてを了解して百億の言葉をも超てて生身のいのちを会得することがある。あらゆるありようのなかで、生身のいのちが王であり、最もすぐれており、無数の生身のいのちと一枚になったものたちが皆ともに同じくこのことを証明している。

<証道歌 62>

 我今此の如意珠を解す、之れを信受するものは皆相應ず。

 了了として見るに一物無し、亦た人も無く亦た佛も無し。

(意訳)
 私は今意のままになるという珠であるこの如意珠たる生身のいのちを了解した。この如意珠を信じ受けたものは皆、生身のいのちそのものとなる。
 ものごとをくもりなく余念を持たずに見ればすべてが無一物という生身のいのちばかりであることを知らされる。そこには人という実体も仏という実体もない。一切空であり、活発発地として転変する生身のいのちばかりであることを。

<証道歌 63>

 大千沙界海中の漚(あわ)、一切の賢聖は電の拂ふが如し。
 假使(たとひ)鐵輪頂上に旋(めぐ)るも、定慧圓明にして終に失せず。

(意訳)
 無数のこの世界で海中に浮かぶ泡のように、現れては消えていく。すべての賢人・聖人といわれる人は、雷鳴が一瞬に轟くように、あらゆる邪を一気に打ち払う。たとえ鉄の輪が頭を締め付けても、生身のいのちと一体の瞑想と智慧は欠けることなく明明として、決してその定慧を失うことはない。

<証道歌 64>

 日は冷(ひやや)かなる可く月は熱かる可くとも、衆魔も眞説を壞すること能はず。

 象駕(ぞうが)崢嶸(そうこう)として謾(まん)に途に進む、誰か見る螳螂(とうろう)の能く轍(てつ)を拒むことを。

(意訳)
 太陽が冷たくなろうが、月が熱くなろうが、多くの邪の悪魔も真の説を破壊することはできない。真の道者が乗る象の引く駕は、険しい山でもわけもなく進む。誰が見ようか、かまきりのような器量の小さい者がその象の引く駕に乗る道者の行く手を阻むのを。小器者は大器の真の人を邪魔できないのだ。

<証道歌 65>

 大象兎徑(とけい)に遊ばず、大悟小節に拘らず。
 管見を將(も)つて蒼蒼を謗すること莫かれ、未だ了ぜずんば吾れ今君が爲に決せん。

(意訳)
 大きい象がウサギの道で遊ばないように、大いなる生身のいのちと一枚の人は細かい些末なことにこだわらない。
 狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならない。いまだに生身のいのちを了解できないなら、私が君のために決着をつけてあげよう。

         (証道歌 終わり)

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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