53.利他ということ  神谷湛然 記

/  53.利他ということ

 利他ということばは一見、とてもよいことのように思える。他人に思いやりの心をもつ、困っている人を手助けする、世のため人のために尽くす・・・。仏教の世界でも‘自未得度先度他(じみとくどせんどた)’ということばがある。自分がまだ救われる前に、先に他人を救いなさい、ということである。これこそ菩薩の行だとされている。しかし、これがいかに曲解されて不幸な歴史があったかを私は見ないわけにはいかないのである。
 戦前、日本の人たちは、天皇のため、国のため、愛する家族のためにとして無謀な戦争に邁進していった。何百万もの人が国内外で亡くなり、国土は焦土と化した。あの戦争は聖戦だといっている人がいる。殺し合いに聖戦があるのだろうかと、私は疑問に思うのだが。そもそも、利他の‘他’とはいったい何だろうか。
 私は、‘自未得度先度他’を、自分のことはさておいて、先ず今出会うところに尽力せよ、と解してりる。その出会うところは、目の前の人であったり、仕事であったり、困難・悩み・病い・不幸な出来事であったり、逆に、よいこと・幸せ・誉れ・称賛などであったい・・・。人生いろいろな出来事に逃げずに相対して、奢ることなく卑下することなく、どうすればよいのか、なにがベストなのか考えながら事に当たることだと私は思っている。私の得度名は‘湛然’であるが、これは私が、永嘉玄覚(ようかげんかく)大師作の「証道歌」という経典にある‘当処を離れず常に湛然’の一節から取って、師匠にお願いしてつけてもらったものである。今ここを離れないで今ここにどっしりと落ち着くという意味である。私は、‘今ここ’こそ‘他’だと心得ている。手助けすることがその人にとって果たしてよいことなのか、逆に突っぱねた方がよいのか、静かに見守ってあげるのがよいのか、その時その場によって違ってくることをよく経験する。国のため人のために戦うのだといわれるが、果たしてこの戦争は本当に国のため人のためなのだろうか吟味した上で、自分はどうすべきかだと思っている。つまり、愛国心とは場合によっては、時の権力者・為政者に反抗することだということがある。戦時中でも反戦を訴えて投獄された宗教家・学者・活動家、そして名もない市井の人たちがいた。
 人のためによいことをするのだ利他という人がいる。しかし、人にとってよいこととは何であろうか。できるだけ速く遠くへ行きたいということで、蒸気機関車が生まれ、自動車が作られ、空を鳥のように飛びたいということで、飛行機が発明された。そして宇宙空間にも飛び出すに至っている。情報通信技術の発達はすさまじく、ある点では人間の脳を越えた人工知能である生成AIが出現している。200万年前ほどに人類が手にした道具と火が、わずか250年前ほどからの産業革命を契機に急速な科学技術文明の展開となった。より早く、より遠く、より高く、より便利に、より豊かに・・・。しかし、現代においても私たちと同じ人類である人たちが原始からの狩猟採集生活をそのまま送っているところがある。より○○にと追い求めるありかたは果たして利他なのだろうか。水道の蛇口をひねればきれいな水が手軽に手元に流れる。ボタン一つで風呂が湧く。家に居ながらにしてテレビで鮮明な映像でドラマという芝居やスポーツを楽しみ、スマートフォンの画面を指でタッチしていろいろなアプリを使ってゲームなどを楽しんだり、欲しい情報を手軽に得る。けれども、これが利他の本質だろうか。
 ビジネスの世界で利他を説いておられる方がいる。しかし、この利他は、買い手である顧客ないし消費者が欲しがるもの、喜ぶものを与えることだと私には聞こえる。より○○にという欲望拡大主義に過ぎないように思えるのだ。
 本質的な利他とは、生命が生命として落ち着いていること、輝いていることではないかと思う。そこには自とか他とかの区別なく、自他ともに一枚となって、宇宙生命たる‘生身のいのち’として現状することではないかと思うのである。そうであるならば、私の世界とは私の内部だけではなくて、私の外部、すなわち、身の回りの人や自然・事柄・環境なども私の世界となる。あえていえば、私にあらざるものはなし、ということである。褒める人、謗る人、支援する人、文句や不芸・不満をいう人・・・・。どれも私の世界を形作っているということになる。そして、心地よいことが必ずしも善とは限らず、かえって自分を貶めることがあったり、逆に不快なことが善となって自分を向上させることもある。‘妄想を除かず、真をも求めす’ではないが、自分の我利我利亡者がすばらしい世の光となって輝くことがある。釈尊の悟りはある意味では、その典型といえるかもしれない。つまい、いい意味での‘唯我独尊’である。今ここに静まったとき、自然と自利利他を越えた本当の‘利他’が現れる。と思っている。
 私は日々の散歩を日課としている。明暗が少しわかる程度の全盲の視覚障碍者であるが、5キロから6キロのコースを十通りほど開拓して、日々コースを変えながら白杖を突きながら歩いている。音声信号のないところではスマホで‘OKO’という信号感知アプリを使って横断している。足の裏、白杖の先端からの振動、まわりの音、風の流れ、うっすらと感じる太陽の光などをたよりにしながらてくてく歩いている。時には人にぶつかってしまうこともある。その時は相手の無事を確認して謝る。できるだけ迷惑をかけないようにつとめている。迷ったら近くの人をつかまえて聞く。考え事をしたり上の空でいると事故に遭いやすくなるので、私にとっては散歩は車の運転と同じように心して行う。散歩ばかりになって散歩している。歩く坐禅といったものだろうか。この散歩は自分の健康保持からきているのだが、これが人に励みを与えているようなのである。そして、頼みもしないのに手助けしてもらったり、挨拶されたり、場合によっては歩行中に視覚障害の相談を受けたことがあったりと、つくづくありがたき縁を思うばかりである。意図せずして小さいながらも利他しているかもしれない。一掃き一拭きに心置く掃除が自分の心の掃除とともに他人の心をも清浄することがある。きれいに清掃された神社や寺や家などに行ったとき、心洗われる心地がするのをよく経験する。一心に仕事に打ち込む親の背中を見て尊敬の念を持つ子がいる。イエスは、自分がしてもらいたいことを他人にしなさい、という。目の前の人が困っていたり悩んでいたりしたら力を貸したくなるのは、群れをなしてこそ生活し得るホモ・サピエンスという人類の自然の感情のように思える。私たちはひとりでは生きていけない。無限の有形無形の縁と関わりのなかで、はじめて生きてゆかれる。利他は、今ここに静まったときに自然と沸き起こる行為・ありさまではないかと、私は思うのである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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