54.意馬心猿に思う  神谷湛然 記

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 意馬心猿ということばが仏教でよく用いられる。走り回る馬のように、騒ぎ立てる猿のように、心が落ち着かなくて騒がしい様子のことだとされている。グーグルを検索すると、「煩悩や情欲・妄念のために、心が混乱して落ち着かないたとえ。また、心に起こる欲望や心の乱れを押さえることができないたとえ。」という説明があった。
 私は30歳の時に出家しようとして上山した兵庫県浜坂町にある安泰寺で、初めて坐禅した時、頭にいろいろな思いや雑念がひっきりなしにあれこれと現れて、わずか1回50分の坐禅で身も心もくたくたになったのを今も覚えている。岡本太郎の「芸術は爆発だ」ではないが、‘頭が爆発’であった。それから6年半ほどその寺で修行生活を送ったが、結局のところ、意馬心猿に終始した坐禅生活だったことを今にして思う。まわりから居眠りしていることをよく指摘されたが、私自身は居眠りしていることが実感としてわからなかった。浮かぶにまかせ、消えるにまかせて坐っていればよいと聞いていたので、自分なりになりゆきまかせでよいのだと理解していたから、居眠りとそうでないのとの違いがよくわからなかったところがあった。まさしく、坐禅ならぬ邪禅であった。
 意馬心猿から解放されたのは、その寺を下山してから7年後(00年11月)に縁あって参禅した少林窟道場だった。広島県竹原市にある坐禅道場で、井上希道老師が指導していた。
 まず、雑念を切ることをよくいわれた。雑念が出たら出るに任せるのではなく、雑念を追わないために、雑念が出たらすぐにそれを打ち切ることが絶えず必要だということだった。そのために、‘一呼吸一ひねり’を徹底して丁寧にするよう指導された。すなわち、一呼吸に心を置いて坐り、一呼吸が終わったら、坐ったままで手元の畳などの床を見ながら腰を左から右にゆっくりと捻るというものだった。雑念の入り込む隙を与えないために、呼吸や腰捻りという動作や畳などを見るという視覚などの感覚など、現実の具体的な感覚にすべてを意識するということである。それは坐禅だけでなく、四六時中求められた。歩く時は一歩一歩に心を置く。食べる時は一噛み一噛みに心を置く。雑巾がけには一拭き一拭きに心を置く。初心者はそれをゆっくり丁寧にやることだった。まさしく‘接心’というものだった。
 それから十数年後、インドから帰国していた草薙龍瞬師の坐禅会に縁あって参加したことがあった。そこでは、判断・感情以前の領域である感覚に心を置くことを求められた。例えば呼吸ならば、息を吸う時は鼻の中の粘膜に入ってくる空気の流れを丁寧に感じ、息を吐く時はその鼻の粘膜に吐き出される空気の流れを丁寧に感じて行うということだった。または、息を吸う時に腹がふくらむのを丁寧に感じ、息を吐く時は腹がへこむのを丁寧に感じて行うことでもよいといことだった。そして、それをゆっくりすることがミソである。井上老師と基本的観点が同じと思った。
 曹洞宗では黙照禅が尊ばれる。公案という、得悟のための課題をもらって解明しようとすることもなく、ただ黙って坐るということである。しかし、黙証禅が単なる座りであるならば、雑念という意馬心猿に襲われて収拾のつかないことになりやすいことを、私は自分の経験から思う。どこかに心を置かないと接心になりにくいだろう。黙照禅の立場からいうならば、私はそれを坐相という坐禅の姿勢にあることを強く指摘したい。雑念が出たら坐相が崩れているとすぐ感知して正しい坐相に戻ることである。目を開け、顎を引き、しっぺい口になり、腰を入れて背筋を伸ばす。つまり、坐相なる坐禅の姿勢という身体感覚に徹底して心を置くということである。雑念が出たら坐を正すことで、おのずと消え失せる。私の安泰寺関係の先輩である櫛谷宗則師は、思い(雑念)の手放しは頭でしようとするのではなくて、坐相を正すことだと明言している。安泰寺時代の私はそこのところがはっきりしていなかったのだった。
 しかし、誤解してほしくないのは、意馬心猿の雑念や思いが悪いと言ってはいないことである。脳科学では、脳はひっきりなしに活動し、一日に1万回もの思いが出たり消えたりしているという。それが‘今ここ’に集中する時、そこに意識がフォーカスして念が整理していく作用がある。
 車を運転する時、ラジオを聞きながらも、隣と会話しながらも、目は前方を見、手はハンドルを柔らかく握り、足はアクセルを踏みながらも停止に備えていつでもブレーキを踏めるようスタンバイしている。私は運転していた時は、心を目に置くよう努めていた。前方不注意こそ最大の事故リスクであることは誰でも認めると思う。
 また、試験の時は、制限時間内に与えられた問題を解くのにぼんやりする暇もなく、頭が必死になって働くことをどなたも経験するだろう。
 集中しなければならない時、注意しなければならない時、人は自然と意馬心猿を整理して‘今ここ’に心を置いている。
 ではなぜ意馬心猿が問題になるのだろうか。‘今ここ’を離れて心が浮遊することにあると私は思っている。
 悩んでいる時、心が落ち着かない時、どうしても手元がおろそかになりやすい。いろいろな人間関係・社会関係・経済的な問題などで心に葛藤と不平・不満・不安などマイナスの思いが出やすいのは、もっといい刺激をと求めたがる頭のせいだろうか。その時その場から逃げ出したくなるのが普通だろう。その最たる果てが自殺といえるかもしれない。
 私は幼少時に原因不明の高熱で難聴となった。母親によれば、声をかけると反応していた幼児が反応しなくなって耳が聞こえなくなったのではと思ったらしい。キーンという高い耳鳴りがよくした。その難聴のためか、言語障害と知的発達の送れも生じた。まわりから‘勝手つんぼ’とか‘舌回らず’とか、ある時は‘アホ’よばりされていた。小学低学年までは‘智慧遅れ’と思われていたようである。よくいじめられて泣きながら家に帰ってきたものだと親は言っていた。そういう私に対して、兄は‘5’しか知らないという学業優秀者で、しかもガキ大将で遊び仲間を率いり、村人から神童と見られていた。私は、そういう兄とよく比較されて劣等感をあじわっていた。教育熱心な家系だったので、‘できそこないの子’と見られた私は、ときどき、父親や母方の祖母から‘神谷の子ではないわ’と言われたことがあった。私の家系は江戸時代からの村の有力な庄屋を祖先とし、村長や校長、教師、投資家、など、村の名士という人がいた。父方の祖父は大政翼賛会の村の会長をしていた。そういうなかで、私は親戚からも‘恥ずべき存在’と見られている視線を感じていた。その様相が私が中学生になってから徐々に変わり、地元では進学校といわれる県立高校に入り、名古屋大学に進学してからは、‘さすが、神谷の子や’と褒めそやすようになった。今にして思えば、‘神谷の子’とは学業成績がよく、それなりのブランドのある学校へ行くことだったのでは、と思う。
 しかし、私は大学に入ってからは、自己の確率を求めるように、入学してすぐ浄土真宗系の宗教団体に入り、半年後に組織のしめつけに反発して脱退し、しばらくして居場所を見つけるようにして反民青系の学生運動に身を投じた。それも2年半ほどでやめた。共産主義に対する疑問が出てきたこともあるが、結局は活動家としての無能ぶりを味わってやる気をなくしたことだった。一年留年して卒業したが、研究生として大学に在籍したまま就職活動した。だが、次々と就職に失敗して、採用通知を唯一いただいた名古屋の書店に勤めることとなった。しかし、そこでも私の鼻持ちならないプライド(今思えば何の意味もない代物だった)と自己本位な姿勢・難聴などによって人間関係がうまくいかず、4年半で退社した。それから半年後に安泰寺に上山して修行を始めたのだった。それ以降ははじめに書いたとおりである。
 今振り返ってみれば、自分という存在の確固たる‘意味’、大地にしっかり立った自己存在を求めてきたのだと思う。その自己がはっきりしない時、‘今ここ’から離れて浮遊して意馬心猿に引きずり回される人生となるのだと、自分の歩んできた人生の経験からそう思う。
 私は今、自己存在の‘意味’とは、‘今ここ’に生きることだとしている。そういうスタンスがはっきりしていれば、意馬心猿という雑念・思いは流れていく風景のように楽しんで眺めるままにできるのだと感得している。
 大谷翔平は野球という‘今ここ’に生きて輝いている。藤井聡太は将棋という‘今ここ’で輝いている。輝いている人には‘今ここ’にしっかりと生きていることを私は見る。私たち一人一人が‘今ここ’に生きていさえすれば、おのずから自分が輝くのだと思うのである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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