/ 55.先祖供養と‘たたり’
まもなく、お盆のシーズンとなっている。亡くなった家族を偲んでお墓参りする光景が今年も繰り広げられるでしょう。この機会に、先祖供養の意味を改めて考えてみたいと思う。
宗教の世界では、天国とか浄土、あるいは地獄などという、‘霊界’があるという考えがよくみられる。死んで魂が肉体から離れて行くべき‘あの世’のどこかの世界へ旅立っていくのだと思っている人が少なくはないように思われる。とくに、宗教家を自認する人から積極的に言っているように見受けられる。
親や家族が地獄に堕ちないよう、天国ないし極楽世界に行けますよう、親身に先祖供養しなさいと。もし、供養を怠ると、先祖さまが地獄に堕ちて苦しむだけでなく、生きているあなたがたにも‘たたり’という報いがきて不幸になる、と。
あなたがたに今、不幸や不運が続くのは、先祖からの因縁のせいであり、それを解決するには、先祖供養を一生懸命することだと。そして、その先祖供養の具体的な行動は教団への心からの信仰と全財産の布施だと説いている教団がある。
ここで、私は‘霊界’とか‘あの世’は客観的に存在せず、ただ主観的に、つまりその人の心にあると言いたい。
「50.輪廻について」と「51.三界六道について」で述べたように、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道といわれる六ツの世界は、私たちの生きている世界のありさまを表したものであり、‘天国’とか‘神’・‘極楽’とか‘浄土’などと同義語ともいえる仏界はその六道の世界で私たちの本来の姿である‘生身のいのち’が働き出した時に現れるありようと書いた。‘あの世’はまったく無く、あるのは私たちの生きている‘この世’だけだと。先祖も含めて先人方による歴史の影響は多少ともあるのは否定しがたいが、現に生きている人たちが被っている不幸や不運とかいうものは、先祖からの‘たたり’という因縁でも何でもなく、その人自身の問題にあることをいうべきだと思う。病にぶつかったら病にから逃げずに生きる。その生き様を‘奇跡のバックホーム’の横田慎太郎選手や「二十歳のソウル」の若きミュージシャンの姿に教えられる。苦しかっただろうが、懸命に生きたからこそ多くの人に感動と生命のすばらしさを思ったのではないだろうか。
では、なぜ先祖供養するのか?私も毎日、朝食前と就寝前に仏壇と神だなにお参りしている。お彼岸やお盆には墓参りをしている。亡き人への感謝すると共に、今あることへの感謝である。亡き人の冥福を祈るということが一般的によくいわれる。しかし、‘霊界’を否定する私からすれば、冥福を向けるのは現に生きている私たちだと考える。私たちが幸せを求めるならば、亡き人も含めて、私たちを取り巻くはかりしれない無尽の縁への感謝こそが大切だと思うのである。感謝の精神こそ先祖供養の核心ではないかと。
永遠ともいうべきはるか昔から引き継がれてきた宇宙生命が、たまたまできた地球のとある時点ととある場所で今こうして私たちは今生きてある。無尽の縁と偶然の重なり合いのなかで偶然に今こうしてある私たちのありようを感謝することこそが、生命にに対する畏怖と謙虚さを忘れない大切な行いと思うのである。
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