/ 56.煩悩について
煩悩と聞くと、よくないイメージを抱く人は多いかもしれない。‘わずらいなやむ’ということだから、言葉からしてマイナスの感じになるのはやむを得ないかもしれない。そもそも、その言葉を生み出した仏教からしてよろしくない意味で使われていることが多いように私には思う。
では、煩悩の中身は何なのか。一般的には欲望としているようだ。その代表を五欲として、飲食欲・性欲・睡眠欲・名誉欲・財欲が挙げられている。そのうちの前者3つはまとめて生存欲と定義できるだろう。なぜなら、飲んだり食べたりしなかったり、眠らなかったりすると死ぬのは当然だし、性欲がなかったら種としての存在は無く、私たち自身も生まれてくるはずがないからである。この生存欲は本能といってもよいだろう。それに引き換え、後者2つは社会欲といえるだろう。他との関係において、より偉くなりたい、より多くのお金や資産を持ちたいということである。別に名誉や財産が無くても、飲食物と睡眠があれば生命にあまり困ることがないだろう。
かって真言密教の世界では、即身成仏として、暗い洞窟の中で、食べ物だけでなく水すらも口にしないで坐禅したまま朽ち果てることを最高の行であり、悟りとしたことがあった。すべての欲望の炎が消え去ったところに真実の世界があるとしたのだった。つまり、生命がなくなったのが最高の境地だとしていることに他ならないといえる。それならば最初から生まれてくるなと言いたいものだ。なぜこんな生命否定の思想が生まれたのだろうか。ニルヴァーナなる涅槃を煩悩の火が消え去るとし、その煩悩に生存欲たる飲食欲・性欲・睡眠欲を入れていることにあると私は考える。
縁あって、京セラ創業者である稲盛和夫のベストセラーである「生き方」を読んだ。その中に、人間の心の構造について述べられているところがあった。氏によれば、五つの重層構造をなしていて、外側から、知性・感性・煩悩・心、そしてその中心に真我があるという。知性とは知識や思想とされ、感性とは五感(眼耳鼻舌身の五官の感覚器官によって感じる感覚世界)と感情だとし、煩悩は欲望や本能とし、心とは魂のことで、生まれ変わり死に変わりしながら積み重ねてきた経験や業(ごう)によって作られた心のことであり、良き思いも悪しき思いもあるという。そして、中心にある真我は宇宙真理そのもので仏性とも呼ばれ、真・善・美に満ちているとしている。そして、心を磨くというのは、知性を磨いてついには知性の壁を削り落とし、次には感性の壁を削り落とし、さらに煩悩・心の壁をも削り落として真我に至ることだとしている。この考えは、真言密教の悪しき即身成仏とまったく同じではないかと私は思ってしまう。稲盛氏がこんな考え方になったのは、彼が得度した臨済宗にあるように思う。なせならば、禅宗、とりわけ臨済宗では楞伽(りょうが)経が重んじられた。その楞伽経では如来蔵思想と唯識思想が展開され、酒と肉食の厳禁と異性との交渉を禁じる不淫戒を厳しく説いている。これは釈尊の思想なのか、私には疑問に思っている。釈尊の死後、仏教は堕落したと思った人たちがバラモン教の厳しい教えを取り入れてヨーガ理論を作ったといわれている。
そういう考えに対して、そんなに煩悩が悪いのだろうか、むしろ煩悩こそ菩提ではないのかという反動が生まれた。いわゆる唐代中国禅宗と日本の鎌倉仏教の煩悩即菩提である。それを雄弁に説いたのが、唐代の高僧・永嘉大師の「証道歌」と私は思っている。
「妄想を除かず 真を求めず、無明の実性 促仏性、幻化の空身 促法身、法身覚了すれば無一物、本源自性天真仏」
(意訳)
‘妄想を除くこともせず、真理を求めることもしない。惑乱して暗闇に溺れるこの身心は、そのままで生身のいのちの身心となり、幻のような、実体としてないこの空の身が、そのままで生身のいのちという宇宙生命となる。
生身のいのちを生身のいのちとして生身のいのちになったとき、これという凝り固まったものは一切なにもなく、ただ転変して自由自在なる生身のいのちばかりであることを。もとより生まれつきに生身のいのちそのものだ。’
私は煩悩を欲望や本能とするならば、そういう煩悩は何の後ろめたさも蔑むものでもなく、生命が生命として当然あってしかるべきものだと思っている。問題はそれに執着して自分や他を否定するほどの過大な欲望をこくことにあることだと考えている。いわゆる、飲みすぎ・食べ過ぎ・眠りすぎ・権力ないし権威の渇望・独占欲というひとり占めである。では、執着はどこから来るのだろうか。それは、ホモ・サピエンスとして私たち現生人類が持ちえた過大に発達させた大脳のゆえであることが多くの識者が指摘している。アタマが農牧畜を作り出して生産物の余剰を生み、文明を起こし、‘万物の霊長類’として地球上で威張るようになっていった。‘我が世の春’といったところだろうか。ところが、あちこちに核爆弾が据えられ、きなくだい戦争や紛争が発生し、第三次世界大戦前夜かと慌ただしい事態となっている。そして、環境汚染や温暖化などを起こして地球環境を加速度的に破壊し続けている。人間が自分の首を湿めていくように私には思えてならない。要するに言いたいのは、欲望や本能が悪いのではなくて、アタマの使い方が問題だということである。
インドを拠点に活動しておられる草薙龍瞬師は、人間の心層構造を外側から、判断・感情・感覚としている。判断には価値観や概念、考えであり、理性や良心も含まれる。感情とは喜怒哀楽などの思いであるが、その根底は‘快・不快’だと私は考えている。何を快とし、何を不快とするのか、その人自身の生理感覚や経験、環境などによって違ってくるだろう。感覚とは目・耳・鼻・舌・触覚や運動覚などの身体感覚の五感で、いわゆる感覚器官の感覚である。感覚は判断や感情以前に、つまりアタマ以前に知覚する世界のことである。私は欲望や本能は感情に含まれ、それを執着する心は価値観・概念とか思い込みも含まれる判断にあると考えている。とするならば、ちゃんとした判断ならば欲望・本能は煩悩ではなくて正しい欲望・本能として発揮するということになるだろう。では、ちゃんとした判断は判断自体でできるのだろうか。西洋の近代思想は理性とか良心をもって可能だとしている。にもかかわらず、理性や良心でもって悲惨な戦争や地球破壊を防げなかった。理性や良心で解決できるものでないことを自己暴露しているように思う。私は経験から、ちゃんとした判断は判断・感情以前の感覚に純粋なることでしか獲得できないように思うのである。つまり、見るままに、聞くままにある世界に至らない限り、ちゃんとした判断は難しいということである。
現在進行形であるウクライナ戦争やイスラエル・ハマス戦争を見た時、お互いの思いの悲惨なぶつかりあいっこのように私にはみえる。アメリカの実質的属国の日本に住んでいる身の私には、耳に触れる情報がアメリカ=正義の見方のように吹聴しているように感じる。そして、ロシアや中国、イラン、イスラム教シーア派を悪く言うことに一生懸命のようである。悪く思われているそれらの国や人たちの立場になって考えてみたとき、どんな世界が現れてくるのだろうか。概念や思い込み・しがらみに囚われているアタマこそが煩悩であり、煩悩の惑乱した様の現れとして戦争や環境破壊があるように思えて仕方ないのである。
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