/ 62.‘イゾラド’に思う
先日(25.1.08)、NHKでイゾラドの番組を見た。アマゾン奥地に住む原住民の話だった。
イゾラドとは、文明とは接触のない未知の先住民ということだという。スマホヤパソコンはおろか、服や靴さえも身につけていないで、原始時代の狩猟生活を糧とする人たちが今も存在しているということだ。詳しくは以下のリンクをクリックして参照されたい。
‘未知なる先住民 一挙出現の謎を追う アマゾン取材記’
この番組を見て、私にとって印象的なことばが二つあった。
一つは、‘今を生きるしかない’ということである。
イゾラドが彼らのすみかとする森に侵入した違法伐採業者と衝突して、その余波を受けて近くの集落の人々もイゾラドから生命の危険に晒された時、過去の経緯や将来への憂慮を語るNhkの取材者に対して、現地の人は、‘今、現実にどうするか’、ということしか答えなかったエピソードは深く印象に残った。‘過去の経験や知識は重要だが、時にはそれが通用しないことがある。まず、目の前にある現実にどうするかだ問題だ。’ということばは、身近な事柄から世界の問題にいたるまで私たちに常にあるべき姿勢の原点を改めて教えているように思った。
二つ目は、「分かりあえるということではなく、違いを違いとして認めることではないか」という記者のことばだった。イゾラドのドキュメンタリが終わった後、インタービューアの問いにゲストの記者がそう話したのだった。
‘イゾラドが何を考えているのか、彼らの価値観は何なのか、理解することは難しい。わかりあえようとするのではなくて、違いを認めることこそが大切だと思う。’
記者のこのことばは、グローバリズムが進行しているとされる今日こそ、深く考えなければならない重い意味がこめられているように私は思った。
人間という生き物は、自分こそが一番偉いと思いたがる存在のようである。仏教ではそれを‘我’と呼んでいる。生物のDNAには、自己ないし自己につながるものを存続させたいという生命の衝動があるといわれるが、人間は‘アタマ’があるゆえに、必要以上の欲望をかいて、より多くのものを独占しようとする傾向があるようだ。私のなかにも‘自分は一番偉い’という思いがふと湧くことがあって、ぞっとすることがある。
今に限らず、強者であろうとなかろうと、自己を一番とする思いが個人や集団、国家など問わず、よく見受けられる。トランプという次期米大統領の発現はそういう人間の個我をあからさまに表に出しているように私は思う。
私は‘自分が一番’という思いはなくすことは無理のように思う。そういう思いは思いとして受け止めた上で、他者にも他者としての思いや価値観があることを認め、折り合いをつけることこそが個々の尊厳と全体の幸福になるのではないだろうか。
真のグローバリズムとは、英語が話せるとか欧米の価値観を持つということではなくて、個々がそれぞれの言語や文化、価値観を否定されることなく持ちながら、他者を違いとして認め尊重して共生していくことだと思う。多様性を否定して自分の価値観を人に押し付けたがる風潮は右派差派問わず今でもよく聞く。本当の意味でのグローバルな社会を願ってやまない。
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