/ 65.大乗とは何か
インドから中国、、朝鮮を経て日本に伝わってきた仏教は大乗仏教といわれる。それに対して、インドから南アジア、東南アジアに伝わった仏教は小乗仏教と、大乗仏教といわれる勢力から揶揄されている。しかし、大乗仏教といわれる一派の現状をみたとき、果たして‘大乗’と偉そうにいえるのだろうかと疑問に思う。なぜなら、葬式仏教に堕落している実体を見るからだ(詳しくは「12.葬式仏教について」を参照されたい)。
釈尊が亡くなって500年から600年後の紀元後まもない頃、戒律や規則が事細かくなって何百か条も、これはしてはならないとかそれはしなければならないとかあって、あまたの守るべきことに汲汲するありさまを批判して釈尊の原点に帰ろうとした人たちが繰り広げた仏教刷新運動をその人たち自らが‘大いなる乗りもの’として大乗と名づけたとされる。八千頌般若経は大乗仏教の初期の紀元前後から1世紀頃に成立したといわれ、般若経で最古級とされ、般若心経より数百年も古いといわれる。そこには、金剛般若経と同じく、‘空’という概念を用いずに展開されており、しかも金剛般若経より徹底して空観を展開している。ここには、大乗とは何か、ということにも触れられているので、この経典を通して仏教に関わる概念について考えてみたい。
仏教には、仏とか菩薩・菩提(悟り)・涅槃・法などの概念がある。八千頌般若経はこれらの、仏とか菩薩とか涅槃なども幻であり夢であると喝破する。つまり、有為法と呼ばれる世間法のみならず、無為法と呼ばれる出世間法も幻であり夢だという。そして、大乗なるものも幻であり夢だという。このことばに驚かない人こそ仏であり菩薩であり涅槃を得、大乗なのだという。
私はこのことばを目にしたとき、まさしく‘諸行無常 諸法無我’の空観を徹底されたのをみたのだった。
曹洞宗の法要のときに唱える回向文に、「却来して世間を観ずればなお夢中の事のごとし」とある。私は、‘世間’だけでなく、出世間の仏の世界も‘夢中の事のごとし’といわなければ片手落ちではないかと思う。
また、通夜の読経の回向文には「一切の有為法は夢、幻、泡、影のごとく、露のごとく、亦稲妻のごとし」とある。これは、漢訳の金剛般若経にある言句である。しかし、‘一切の有為法’だけでなく、無為法も含めて、‘一切の法は夢、幻、・・・’とするのが正しい言い方ではないか、とわたしは思う。実際に、中村元によるサンスクリット原文和訳によれば、
「現象界というものは、星や目の影、ともしびや幻や露やうたかたや夢や電光や雲のよう、そのようなものと見るがよい」
とある。八千頌半谷経は、仏や如来や涅槃も夢であり幻だとしているのはこれらの無為法も現象だということに他ならないといえるだろう。ゆえに、「現象界というものは」は‘一切の法は’ということとなるのだといえるのではないだろうか。
そしてまた、弘法大師の空海が作ったとされるいろは歌には、「有為の奥山けふ越えて あさき夢見じ 酔ひもせず」ということばがある。「わが世たれそ常ならむ」を有為の世界ととらえて、「有為の奥山けふ越えて」到達した出世間の無為の世界には「わが世たれそ常ならむ」は存在しないと考えている節がある。やはり、弘法大師も心境が中途半端だったといわざるを得ないかもしれない。
‘諸行無常 諸法無我’、‘諸法実相’、‘事事無礙 融通無礙’、‘観自在’は‘空’と同一であることを私はこれまでのブログで論じてきた。転変してやまない宇宙のありように任せきることができたとき、自由自在な人生が開けてくるのだと釈尊は説いているのではないだろうか。
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