/ 66.大乗とは何か その2
「65.大乗とは何か」の追記として続きを述べたいと思う。
八千頌般若経では、大乗について以下のように述べている(中村元によるサンスクリット原文和訳より)。
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‘(釈尊はいわれた。)大乗とは、測られないことの名称である。測られないということは、その徳が量られないからである。・・・出ていく人も、出ていくための乗り物も、この二つのものが共に存在しないし、また有るとは認識されないからである。このように、一切のものが存在しないのであるから、なにものがなにものによって出ていくのであろうか。・・・大乗に行って進み、大きな乗り物に乗っているというのは、このようなことなのである。’
‘(弟子の須菩提は釈尊に申し上げた。)この乗り物(大乗)は虚空に等しく、きわめて偉大であるがゆえに大乗なのです。ちょうど虚空のうちには無量無数の人々をいれる余地があるように、この大乗という乗り物のうちには無量無数の人々をいれる余地があります。・・・この乗り物は、過去現在未来を通じて同一なのです。それゆえに偉大な乗り物は大乗と呼ばれるのです。’ ()内は筆者注。
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すなわち、大乗とは一切空のことであり、すべてが住するところ無くして、実体あるものは無く、無量無数の存在を含んだ虚空、言い換えれば、宇宙一切の世界のことであるということだ。つまり、この宇宙一切という大乗からこぼれ落ちるものは何も無いということである。
私たちの心は本来清浄(しょうじょう)だと般若経は説く。にもかかわらず、私たちはあるものやことにとらわれて、本来清浄なる心を自ら進んで汚している。安住とは、住する所が無くしてはじめて、安住することだと経典はいう。即ち、万物転変理法に落ち着いた時、私たちは自由自在な働きを得ることができると説いているのではなかろうか。
ところで、大乗は衆生済度を誓う利他の教えであり、自己救済のみを求める小乗より優れているのだという人たちがいる。「自未得度先度他」ということをよく聞かされる。‘自分が悟って救われる前に先に、他の人を悟らせて救いなさい。’という意味である。私はそれには疑問に思うところがある。利他行をしても一切空の大乗精神が無ければ、自己満足のおせっかいに陥りやすいのではないだろうか。大乗に立つならば、自も他もすべて夢幻の現象という空に過ぎず、しかも既に自も他も大乗という真如にあるがゆえに、本来清浄で空である自が執着というとらわれの思いを起こしていわゆる‘我’を膨らましがちなことを戒めて、‘我’を捨てて空に生きなさい、というのが本旨なのではないかと思う。自とか他とかを考える必要もなく、自他不二にして一切空とするのが大乗だと思う。
「二未得度先度他」はよく‘滅私奉公’に曲解されることがよくある。戦前は特に甚だしく、ナチョなリズムを掻き立てる働きをした。私心を殺して国家(実質は天皇とか権力者であるが)に命を捧げなさい、と言われてきた。教育勅語はその先導役を果たした(「64.教育勅語に思う」参照)。現在では、‘滅私奉公’は所属する会社や組織に身を捧げる意味になっているといえる。‘公’なるものも夢幻泡影のごとき空でしかないことを‘滅私奉公’は言ってはいない。大乗から言うならば、‘滅私奉公’は‘滅私滅公’となるべきだろう。「自未得度先度他」は危うい言句であり、大乗に立つならば、あまり使って良いものではないように感じる。
私たちは、一切空の大乗である本来の立場に立った時、存在が自分にも他にも同じ宇宙生命の一つとして慈しみの愛の心が働くことができるのではないかと思うのである。
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