/ 30.修証義 その1 湛然意訳
修証義(しゅしょうぎ)
第1章 総序(そうじょ)
生(しょう)を明(あき)らめ 死(し)を明(あき)らむるは 仏家一大事(ぶっけいちだいじ)の因縁(いんねん)なり、生死(しょうじ)の中(なか)に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし、但(ただ)生死(しょうじ)すなわち涅槃(ねはん)と心得(こころえ)て、生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく、涅槃(ねはん)として欣(ねご)うべきもなし、 是(この)時初(ときはじ)めて生死(しょうじ)を離(はな)るる分(ぶん)あり唯一大事因縁(ただいちだいじいんねん)と究尽(ぐうじん)すべし。〈第一節〉
(意訳)
‘修行とは? 悟りとは?’
第1章 概論としてはじめに
生きるとは何なのか、死ぬとは何なのか、この疑問を明らかにすることは、人生の真実を求める者にとって最大の問題である。人生が、‘諸行無常 諸法無我’の一切空という宇宙真実に沿うならば、執着やとらわれによって生じる苦悩ある人生にはならない。ただ、この人生そのものが既に宇宙真実たる光明の中にあるのだと心得たならば、この人生を嫌悪する必要もなく、悟りの世界に入りたいと願う必要もない。この時初めて人生の苦悩から解放されるのだ。このことを徹底してはっきりさせていくことこそが、人生において一番大事なこのなのだ。
* *
人身(にんしん)得(う)ること難(がた)し仏法(ぶっぽう)値(お)うこと希(まれ)なり、今我等(いまわれら)宿善(しゅくぜん)の助(たす)くるに依(よ)りて、已(すで)に受(う)け難(がた)き人身(にんしん)を受(う)けたるのみに非(あら)ず、遭(あ)い難(がた)き仏法(ぶっぽう)に値(あ)い奉(たてまつ)れり、生死(しょうじ)の中(なか)の善生(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生(しょう)なるべし最勝(さいしょう)の善身(ぜんしん)を徒(いたずら)にして 露命(ろめい)を無常(むじょう)の風(かぜ)に任(まか)すること勿(なか)れ。〈第二節〉
(意訳)
人間として生まれることはなかなか無いことである。ましてや、宇宙真実の教えに出会うことはさらになかなか難しいことだ。今、私たちは無数の縁に助けられて、無数に存在する生命の中で人間として生まれただけでなく、なかなか出会うことの無い真実の教えに出会っている。人生で善き最もすばらしい出来事だ。この最もすばらしい善なるこの身を漫然として惰性に流されて露のごとき儚い命をいつ死ぬかわからない無常の嵐になされるがままにしてはならない。
* *
無常(むじょう)憑(たの)み難(がた)し、知(し)らず露命(ろめい)いかなる 道(みち)の草(くさ)にか落(お)ちん、身(み)已(すで)に私(わたくし)に非(あら)ず、命(いのち)は光陰(こういん)に移(うつ)されて暫(しばら)くも停(とど)め難(がた)し、紅顔(こうがん)いづくへか去(さ)りにし、尋(たず)ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし。熟(つらつら)観(かん)ずる所(ところ)に往事(おうじ)の再(ふたた)び逢(お)うべからざる多(おお)し、無常(むじょう)忽(たちま)ちにいたるときは国王大臣親昵従僕妻子珍宝(こくおうだいじんしんじつじゅうぼくさいしちんほう)たすくる無(な)し、唯独(ただひと)り黄泉(こうせん)に趣(おもむ)くのみなり己(おのれ)に随(したが)い行(ゆ)くは只是(ただこ)れ善悪業等(ぜんなくごうとう)のみなり。〈第三節〉
(意訳)
いつ死ぬかわかったものではない。この命は、どこかの道の草の上に落ちて儚く消えてしまう露みたいなものだ。私だと思い込んでいるこの身体は実は確固としてあるのではなく、転変として変化している。常に変化し一刻も同じでは無い。若々しかったあの面影はどこへいったのか、今やそのあとかたも無い。よくよく思い返しても、昔のあの頃には再び戻ることはできない。死は思いがけず訪ててくる。その時、国王や大臣、親しい人々、使用人や妻や子供、価値ある財宝は助けてはくれない。ただ一人で死んでいくだけだ。死んでいく自分に付いてくるものは、自分の行った善悪の行いによる報いだけである。
* *
今(いま)の世(よ)に因果(いんが)を知らず、業報(ごっぽう)を明(あき)らめず、三世(さんぜ)を知(し)らず善悪(ぜんなく)を弁(わき)まえざる邪見(じゃけん)の党侶(ともがら)には群(ぐん)すべからず、大凡(おおよそ)因果(いんが)の道理(どうり)歴然(れきねん)として私(わたくし)なし、造悪(ぞうあく)の者(もの)は堕(お)ち、修善(しゅぜん)の者(もの)は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)もたがわざるなり、 若( も)し因果亡虚(いんがぼうじてむな)しからんが如(ごと)きは、諸仏(しょぶつ)の出世(しゅっせ)あるべからず、祖師(そし)の西来(せいらい)あるべからず。〈第四節〉
(意訳)
今この世に因果の道理を知らず、自らの行いの報いを考えず、過去・現在・未来の三世に渡って行いによる報いが及ぶことを知らず、善悪をわきまえない誤った見解の者たちの群れに陥ってはならない。物事には必ず原因あって結果があるという因果の道理は例外なく貫徹している。悪を為すものは堕落し、善を為すものは向上していく。ちょっとでもこの道理に従がわないことはない。もし、この因果の道理が間違いであるならば、諸々の真実者が世に出るはずもなく、達磨大師がインドから中国に来るはずもない。
* *
善悪(ぜんなく)の報(ほう)に三時(さんじ)あり、一者(ひとつには)順現報受(じゅんげんほうじゅ)、二者(ふたつには)順次生受(じゅんじしょうじゅ)、三者(みつには)順後次受(じんごじじゅ)、これを三時(さんじ)という、仏祖(ぶっそ)の道(どう)を修習(しゅじゅう)するには、 其(そ)の最初(さいしょ)よりこの三時(さんじ)の業報(ごっぽう)の理(り)を効(なら)い験(あき)らむるなり、爾(しか)あらざれば多(おお)く錯(あやま)りて邪見(じゃけん)に堕(お)つるなり。但(ただ)邪見(じゃけん)に堕(お)つるのみに非(あら)ず、悪道(あくどう)に堕(お)ちて長時(ちょうじ)の苦(く)を受(う)く。〈第五節〉
(意訳)
善悪の報いには三つの時がある。
一つは、自分の生きている時に報いが現われること。二つは、自分が死んで後の次の代で報いが現われること。三つは、自分が死んで後の次の次の代に報いが現われることである。これを三時というのである。
真実者の道に励み学ぶには、初めからこの三時の行いの報いの理を学んでしっかりと理解することである。そうでなければ、大抵の多くの者が誤った見解に落ちることになる。いや、それにとどまらず、道を踏み外して悪しき世界に堕落して長らく苦悩を受けることになる。
* *
当(まさ)に知(し)るべし 今生(こんじょう)の我身(わがみ)二(ふた)つ無(な)し、三(み)つ無(な)し、 徒(いたず)らに邪見(じゃけん)に堕(お)ちて虚(むな)しく悪業(あくごう)を感得(かんとく)せん惜(おし)からざらめや、悪(あく)を造(つく)りながら悪(あく)に非(あら)ずと思(おも)い、悪(あく)の報(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依(よ)りて悪(あく)の報(ほう)を感得(かんとく)せざるには非(あら)ず。〈第六節〉(意訳)
まさに次のことを知るべきである。今生きている私という存在はたった一つしかないことを。時を無駄にして誤った見解に落ちて虚しく悪しき報いを受けるようなことは、至極残念なことだ。悪い行いをしても悪行だとは思わず、悪の報いなど受けることはないと誤った考えを持ったとしても、その報いを受けないはずはないのだ。
コメント