31.修証義 その2  神谷湛然 意訳

/  31.修証義 その2  湛然意訳

    第2章 懺悔滅罪
 仏祖(ぶっそ) 憐(あわれ)みの余(あま)り広大(こうだい)の慈門(じもん)を開(ひら)き置(お)けり、是(こ)れ一切衆生(いっさいしゅじょう)を証入(しょうにゅう)せしめんが為(た)めなり、人天(にんでん)誰(た)れか入(い)らざらん、彼(か)の三時(さんじ)の悪業報(あくごっぽう)必(かなら)ず感(かん)ずべしと雖(いえど)も、懺悔(さんげ)するが如(ごと)きは重(おも)きを転(てん)じて軽受(きょうじゅ)せしむ、又(また)滅罪(めつざい)清浄(しょうじょう)ならしむるなり。〈第七節〉
(意訳)
    第2章 懺悔して悪罪を滅するということ
 釈尊はこのことを憐み、慈悲心から限りなく広く救いの門戸を開かれた。それは、一切の生きとし生けるものを宇宙真実の光明に引き入れようとされたためである。人間であろうと神であろうとその真実光に入らないものはいない。あの三時の悪行の報いは必ず感じて受けなければならないが、自分の犯した罪(我執・ひとりよがりなど)を心底から悔いて素直になろうとするというようなことは、重い罪を軽くしてくれるだけでなく、悪の罪を消して心を清浄にしてくれる。
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 然(しか)あれば誠心(じょうしん)を専(もっぱ)らにして前仏(ぜんぶつ)に懺悔(さんげ)すべし、恁麼(いんも)するとき前仏懺悔(ぜんぶつさんげ)の功徳力(くどくりき)我(わ)れを拯(すく)いて清浄(しょうじょう)ならしむ、此(こ)の功徳(くどく)能(よ)く無礙(むげ)の浄信(じょうしん)精進(しょうじん)を生長(しょうちょう)せしむるなり、浄信(じょうしん)一現(いちげん)するとき自佗(じた)同(おな)じく転(てん)ぜられるなり、其(そ)の利益(りやく)普(あまね)く情非情(じょうひじょう)に蒙(こう)ぶらしむ。〈第八節〉
(意訳)
 したがって、素直な心でもって宇宙真実の光明を前にして犯した悪行を悔いて心の殻を破って宇宙光明に解放すべきである。このようにするとき、この懺悔の力は自らを救い、我執・とらわれから解放されてまっさらな心にしてくれる。この働きは、何ものからも妨げられることのない誠の思いと努力を育ててくれる。誠の思いが自他区別なく一なる宇宙光明として現れるとき、世界ぐるみが今までとまったく違った新しい世界に転換されてしまう。その働きは生物であろうと非生物であろうと宇宙一切に及ぶ。
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 其大旨(そのだい し)は、願(ねが)わくは我(わ)れ設(たと)い過去(かこ)の悪業(あくごう)多(おお)く重(かさ)なりて障道(しょうどう)の因縁(いんねん)ありとも、仏道(ぶつどう)に因(よ)りて得道(とくどう)せりし諸仏諸祖(しょぶつしょそ)我(われ)を愍(あわれ)みて業累(ごうるい)を解脱(げだつ)せしめ、学道(がくどう)障(さわ)り無(な)からしめ、其功徳(その く どく)法門(ほうもん)普(あまね)く無尽法界(む じんほっかい)に充満弥綸(じゅうまん み りん)せらん、哀(あわれ)みを我(われ)に分布(ぶんぷ)すべし、仏祖(ぶっそ)の往昔(おうしゃく)は吾等(われら)なり、吾等(われら)が当来(とうらい)は仏祖(ぶっそ)ならん。〈第九節〉
(意訳)
 その懺悔の大意は、「願わくば、たとえ、私が過去に行った悪行が重なって真実を求める修行に妨げとなっても、真実道によって悟られた釈尊はじめ、すぐれた先達の方々よ、私を憐んで悪業のしばりやしがらみから抜け出させて私の求道に障りがないようして下さいますよう。真実を説くあらゆる者たちからの、宇宙一切に充満している、すばらしい働きである慈悲を私にも分け与えて下さることを。釈尊もかっては私たちと同じように苦悩する人だった。悩める私たちも将来は釈尊のような覚者に成じることを。」
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 我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)、皆由無始貪瞋癡(かいゆう む し とんじん ち)、従身口意之所生(じゅうしん く い し しょしょう)、一切我今皆懺悔(いっさい が こんかいさん げ)、是(かく)の如(ごと)く懺悔(さんげ)すれば必(かなら)ず仏祖(ぶっそ)の冥助(みょうじょ)あるなり、心念身儀発露白仏(しんねんしんぎほつろびゃくぶつ)すべし、発露(ほっろ)の力(ちから)罪根(ざいこん)をして銷殞(しょういん)せしむるなり。〈第十節〉
(意訳)
 「私が過去に行った様々な悪行は、すべてが自分の知らないはるか以前から、貪り・怒り・無知による愚かさにの三業である。この三業は身体と言葉と思いから生じたものだ。今、私は全てを心底から悔いて反省して宇宙光明の前に心の殻を脱ぎ捨てて真っ裸になります。」 このように懺悔すれば必ず真実光明から目には見えねども助けがあるだろう。心底から素っ裸になって宇宙真実光明のありように身心を投げ入れるべきである(湛然注・只管打坐とか白木の念仏とか祈りなど、今ここに生きるという行いということ)。この自分の心を表に露わに晒け出す力は、悪しき行いによる罪を完璧に消し去ってくれるだろう。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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