/ 79.‘日本人ファースト’に改めて思う
‘日本人ファースト’について再び考えてみたいと思う。
まず、‘日本人’とは何かということである。
私たちがイメージする‘日本人’は、モンゴロイド系の黄色人種で、身近に出会う人々を思い浮かぶのが多いのではないかと思う。そこには同じ‘日本人’であるアイヌ民族や琉球民族を思う人は少ないだろう。また、サニー・ブラウン選手のようなハーフの人や日本に帰化した元外国人を思う人はさらに少ないだろう。そして、同じモンゴロイド系であっても名前がいわゆる日本風でなかった時、その人は日本国籍を持つにもかかわらず、‘日本人’ではないなと思う人は多いのではないだろうか。
私は、学校や世間で‘日本は単一民族国家’とよく聞かされてきた記憶がある。多くの人もそうではないかと思う。実は古来から日本は単一民族国家ではなく、南から東から北からいろんな人たちが海を渡ってやってきた複数民族国家だったことを学校では一切教えてもらったことはない。その理由は、‘万系一世’の天皇を頂点とする日本国家をイメージしていたせいだろうか。しかし、その天皇も右的保守派の人たちがいうような‘純然たる日本人’ではない。事実、平安朝を創建した第50代の桓武天皇の母は韓国・百済から来た人であった。私たち‘日本人’はルーツからして、「複数民族国家」だったことを忘れてはならないと思うのだ。
私はまた、‘日本人ファースト’には、トランプの掲げる「アメリカファースト」や小池都知事のいう「都民ファースト」とは異質なものを感じてしまう。なぜ、参政党は‘国民ファースト’とか‘国民第一’とはいわないで、‘日本人ファースト’としたのだろうか。
多くの人はの懐は、実質賃金の今なお続く長期下落と増え続ける社会保険料と税金・物価高によって貧しくなっているといわれている。そしてまた、訪日する多くの外国人たちの旺盛な購買力に比して自らの非力なありさまを思い知らされ、日常に当たり前のようにいろいろな外国人を目にするありさまもあって、現状に対する不満とコンプレックスが溜っているとの話をよく聞く。参政党はそれを敏感に嗅ぎ取って、いわゆる‘日本人’でない‘外国人’をスケープゴートすることによってその捌け口としたのではないかと思えて仕方ない。だからこそ、‘日本’ではなく‘日本人’にしたのではないかと推察する。これは、ナチスドイツのヒトラーが勤め帰りの労働者に向かって‘生活が苦しいのはユダヤ人のせいだ’と呼びかけて、同じドイツ国民であるユダヤ人をスケープゴートしたのとまったく同じといわざるをえない。その結末は、あのおぞましいユダヤ人大量虐殺ではないだろうか。
先日、総務省から2025年7月1日時点での日本人口推計値が発表された。それによると、日本人人口は1億1996万7千人で、前年同月に比べ91万8千人減少したという。外国人人口は347万5千人で、前年同月に比べ25万4千人増加という。このペースだと50年後には日本人人口は7500万人になることになる。
介護や看護、建設現場などには外国人なしでは成り立たない労働現場の実体がある。若者人口が加速度的に減少していくなかで、「きつい・きたない・きけん」の3k労働に就きたがらない‘日本人’の代わりに、外国人への依存度がますます高まっていくことは避けられないのは明白である。こんな現状に、参政党は反グローバリズムを掲げて‘日本人’だけで日本をまかなっていくのだと主張する。安易な民族主義、ナショナリズムに肌寒い思いを感じるのは私だけだろうか。
地球市民というグローバルな視点から、開かれた、安心できる豊かな日本を願うばかりである。
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