80.健全なナショナリズムを求めて  神谷湛然 記

/  80.健全なナショナリズムを求めて

 「本人ファースト」とか「アメリカファースト」などというような、‘○○ファースト’がもてはやされているようである。このような自分ファーストには何か肌寒い思いを感じるのは私だけだろうか?
 異国人や異人種に対する排斥や蔑視の感情は一種のイジメのように見える。
 学校では、気に食わない人やなんやら弱そうな人をターゲットにして憂さを晴らすことはよくある光景だ。私も子供のころ、ダウン症や知的障害の子を「アホ」とか「チンバ」などと言ってからかったことがあった。そういう私も聴力障害と舌運動障害のために「ツンボ」とか「舌回ラヘン」とイジメられていた。
 イジメる方は欲求不満を捌き出せて快感を覚えて一時の優越感に浸る。イジメられた方はその侮辱された思いを晴らすために自分より弱いと思われる相手を探し出して憂さを晴らそうとする。そして、イジメる立場にあった人がいつの間にかイジメられる立場に晒されることもよくあることだ。人間というものは、なにかと比較して優劣をつけたがる存在なのだろうか。
 断然と強い立場にある者は‘○○ファースト’というフレーズは使う必要はないだろう。なぜなら、断然と強い立場だから、自然とその強い立場の思い通りだから、あえて‘○○ファースト’と叫ぶ必要はないだろうからである。ということは、強い立場が失われつつある時には、なんとかその強い立場を守ろうとして‘○○ファースト’と言わないと落ち着かなくなるからではないだろうか。
 私の知っている人は「日本人ファースト」を掲げる政党の支持者なのだが、よく、「中国人は日本からみんな追い出さなきゃダメ!」 「中国人はとこかまわず大声で叫んでマナーが悪い。日本のものをどんどん奪ってる!!」と言っていた。私はそれに対して、「中国人にもいろいろな人がいる。日本人にも悪い人がいる。十把一絡げして中国人は全部悪いというのはおかしいいよ。よい中国人はどんどん来てもらって、ダメな中国人はお断りでどうなの?」と聞いたが、頑固なその知人は自説を曲げようとはしなかった。ファンとなっているその政党代表の言うことは全く正しいと心酔しているようで、まるでどこかの宗教団体の信者のような感じだった。
 日本ではその知人のように、若い世代や右派的保守といわれる層では、‘日本人’に強い共感を覚える人が多いようだ。先の参院選で若い世代や保守層に知人の支持する政党が大きく躍進したことはその象徴かもしれない。自分の属する‘日本人’に自信と強さを取り戻して、自分も自信と強さを得たいという願望が込められているようだ。オリンピックの表彰式で、メーンポールに揚がる日の丸と演奏される君が代に感激して喜ぶことに似ているかもしれない。
 私は、健全なナショナリズムには大いに結構だと思っている。悪しきナショナリズムには偏狭のゆえにはっきりと反対だ。健全なナショナリズムとは、他国と認め合って共存していこうとする考えであり、悪しきナショナリズムとは、自国のみを認めて他国を存在すら認めない考えだと私は理解している。健全なナショナリズムこそ、自国の歴史と文化に誇りを持って国際社会に活躍できると思っている。もし悪しきナショナリズムならば、まわりから鼻持ちならぬ己惚れた国粋主義者として嫌われるだろう。自慢たれには付き合い切れないということだ。
 反グローバリズムを主張する人には、グローバリズムによって自国の文化と伝統が否定されて自国と自分に対する誇りと自信が失ってしまうと考えているようである。しかし、そう考えている人には、戦後のアメリカイズムの文化と価値観に染められた日本をあまり批判しないのはどういうことだろうか。また、彼らの理想とする戦前の大日本国憲法も、ドイツやイギリスを手本として作られたものだ。明治維新以降の日本は「脱亜入欧」を旗印にして富国強兵を推し進め、日清・日露戦争の勝利によって欧米列強から強国として認められて関税自主権の獲得と国際連盟の常任理事国入りを実現したのだった。非白人国である日本の台頭は、欧米の白人国に植民地された地域の有色人種の人たちには希望の光と映ったようである。国際連盟で日本が人種差別撤廃への取り組みをしたことがあった。そういう日本も自国では朝鮮人や中国人を虫けらのごとく差別して虐待したのだったが。結局のところ、戦前は当時の世界スタンダードだった英独仏に伍して大国たらんとするグローバリズムであり、戦後は世界標準となったアメリカに従属してグローバルしようとしたのだった。反グローバリズムであった江戸時代の鎖国政策から脱して、グローバルたらんとするのが明治以降の日本の姿ではないだろうか。反グローバリズム思想は、江戸時代の鎖国時代に戻って井の中の蛙になろうとするように思えるのだ。世界と相互依存しながら私たちが生活している現状をみた時、荒唐無稽な偏狭ナショナリズムにしか見えないのである。
 1970年の大阪万博には家族旅行や学校の遠足で三回ほど行ったことがあった。当時、私は中学1年だったが、日本にいながら世界旅行している気分がした。世界のいろんな人たちを間近に見、それぞれの国の伝統と文化、当時の最先端の技術に触れながら、改めて日本の良さも感じたものだった。その善さとは、日本は日本として誇っていいのだということである。
 日本は、1979年に国際人権規約に批准し、1981年には難民条約句にも加盟した。これによって、日本は国籍条項をなくして年金や健康保険にも外国人が加入できるようになった。生活保護については、日本の敗戦によって日本国籍を失った在留の朝鮮人・韓国人・中国人が朝鮮動乱や国共内戦で祖国に帰れず、目に見える差別のなかで生活困窮に陥った人たちを救済するために在留資格に限定して1950年代から外国人にも適用されてきた歴史がある。戦後80年のあいだ、ゆるやかながらも日本は国際協調主義の道を歩んで来たのだった。今や、それを否定するような言動が政党代表についている政治家たちからあからさまに出ていることに、悪しきナショナリズムに蝕まれつつある日本を思わずにはいられない。このような政治家がのさばるのは、彼らを支持する多くの人たちがいるということである。‘外国人のやつらめ! 日本に来て、でしゃばりやがって!!’が濃厚になっているのだろうか。まるで、白人による有色人種差別と同じである。生活にゆとりがなくなって心も狭くなっているのだろうか。
 私は以前、ブログで、アマゾン原住民のいつも愉快に笑って生活をエンジョイしていることについて書いたことがあった。彼らは心の余裕のためか、外来者にも寛容だと聞く。「人類みな兄弟」という標語が一時はやったことがあったが、まさに、そういう地球市民的な視点から自らを改めて問い直す必要がまずます強くなっているように思う。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

神谷 湛然をフォローする
如是ということ
神谷 湛然をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました