82.「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」  神谷湛然 記

/  82.「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」

 歎異抄に「善人なおもて往生を遂(と)ぐ、いわんや悪人をや」という有名な一句がある。私なりに訳せば、‘善人でさえ悟って幸せになれる。ましてや悪人でさえ悟って幸せになれるのは当然だ’ということになろうか。これについて私なりに考えてみきたいと思う。
 歎異抄は、浄土真宗の開祖といわれる親鸞の弟子である唯円が念仏に対する乱れを嘆いて親鸞の言葉を書き残したものとされている。この書を先日、全読した。宗教の根幹に触れている思いがした。
 ここで言う善悪は仏法の視点から言っているのであって、人間社会からの視点とはまったく違うということである。
 悪人とは、貪ぼり・瞋り・真実に暗いという無智の三毒に冒されて煩悩まみれの自分を自覚して自力のはからいをすべて捨てて全身心を仏即ち宇宙真実光にまかせるしか他ない人をいうと私は理解する。善人とは、自分の力で善い行いを積み重ねて悟ろうとする人だと歎異抄は言っているのだと思う。悪人を苦しんでいる人とか、悪い罪を犯さざるを得ない人とかなどと理解する人がいるようだが、それは謝った浅はかな理解と私は思う。
 表向きは善良そうな人であっても、内面には燃え盛る欲望に苦しんでいる人がいる。衣食住が足りているのに張り合いがなく、生きがいが見いだせずに悶々と日々を送っている人がいる。はたまた、不満の捌け口をここ最近に目立ってきた外国人や隣国の行動に向けて排外主義を煽っている人がいる。その人たちもほとんどが普通に善い人だと思う。しかし、この苦悩や無気力・退屈・不満の本質は一体何だろうか。
 私は、それは自分のはからいのせいだとみる。自分の持っている観念や通念・思い込み・基準や尺度でもって考え、行動しているせいではないだろうか。東アジア問題でいえば、中国には中国の論理があり、半島(北朝鮮と韓国)には半島の論理がある、日本には日本の論理があり、日本人は日本の視点から中国や半島を見てしまっていると東洋史専門家の岡本隆司は指摘する。国関係は人間関係の敷衍したもとといえる。さまざまな思いや観念が交錯する関係にあって、虚心坦懐にものごとを見る姿勢が問われているように思う。
 その実践として、念仏門でははからいを捨ててすっからかんになってまるごと自分を念仏に投げ入れよと説き、禅門では善悪を思わず念相観も捨ててただ坐禅せよと説く。キリスト教では神の前で膝まづくという祈りを説いている。一切のはからいや思いを捨ててすっからかんとなって絶対他力になる人を歎異抄では悪人と仰せられたのだと私は理解している。だから、ユダヤ大量虐殺のヒトラーや大量殺人鬼のような極悪非情人であっても、己の悪を恥じて懺悔して宇宙真実光に帰依すれば救われ悟りを開くということである。仏典でも、殺人や盗みを働いた者が回心して悟りを得た話がよく出ている。
 人間というものは私も含めてどうしても自分中心に回ってしまう存在がある。であるがゆえに、はからいや思いを投げうって念仏や坐禅・祈りなどの宇宙真実光に全身心を任せる行いが絶えず求められているのだと思う。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

神谷 湛然をフォローする
如是ということ
神谷 湛然をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました