/ 83.‘宇宙真実光’とは
私は‘宇宙真実光’ということばを時折使っている。ことばというものは月を指し示す指に過ぎないので取りあえずはそう名づけておこうというものである。それでも‘宇宙真実光’をなにか遥か遠くにあるとても素晴らしいものと思っている人もおられるかもしれないので、今ここであえて説明したいと思う。
巷には、神や仏・菩薩、天、大本、根源、法理、イエス様・マリア様、アラーなどといろいろな究極概念が飛び回っている。
仏教の世界でも、大日如来や阿弥陀如来・薬師如来・釈迦如来などの○○如来、奈良の大仏で有名な盧舎那仏(るしゃなぶつ)や阿弥陀仏・釈迦牟尼仏などの○○仏、観世音菩薩や文殊菩薩・弥勒菩薩・虚空菩薩などという○○菩薩、空とか如是・縁起・因果因縁・無常無我などといういわゆる法理などと実に多数の概念がある。
私はそれらすべてを‘宇宙真実光’と言ったまでである。
それではその‘宇宙真実光’は具体的にどこにあるのだろうか。実は身近なところどころか、私たち自身がすでに‘宇宙真実光’なのだということだ。ただ、汚れた目のために見えず、気づかないでいる。私たちを存在せしめているもの、否、私たちを形作る一つ一つの細胞を生かせしめ活動させるもの、頭ではわかっていても実感できないありようということである。
私は坐禅修行のなかで、頭で理解する必要も分かる必要もなく、それがそれとして、あれがあれとして、自分がそればかりに、あればかりになってしまった経験をがあった。概念もなく、思いもなく、自分が世界いっぱいになってしまったということだった。
中国唐代に香厳智閑(きょうげんちかん)という禅僧がいた。仏法の大義がわからず、失望して山奥に庵を構えていたある日、庭を竹ぼうきで掃いていた時、小石がほうきに引っかかって思いっきりその小石を跳ね飛ばしたら竹の根元にその小石が当たってカチンという音が響いた。その途端、彼は霧が一気に晴れたように悟りを得たという逸話がある。
我を忘れて掃除三昧になっていたが故に、全身にカチンばかりになってしまったのである。理解も分別も思いもなく、ストレートにカチンばかりになったということだ。まさしく、‘宇宙真実光’が‘宇宙真実光’として現成(げんじょう)したといえる。念仏門の言い方なら、自力を捨てて弥陀のはからいにまかせるということである。道元禅師の言葉でいうならば、仏のいえに投げ入れてということである。
やなせたかし作詞・いずみたく作曲の「手のひらを太陽に」という歌いだしに‘ぼくらはみんな生きている・・・’ということばがある。あなたもわたしも、オケラやミミズやミツバチだってアメンボだって、と歌われている。私はそれをさらに敷衍して、ゴキブリ・ネズミ・ヘビ・ハエ・カにとどまらず、人間にとって恐ろしいウィルスやバイ菌も、さらに石ころや瓦礫、風、雨、水、空気、木々や草、さらに放射能も太陽や星くずや暗黒空間など、なにもかも宇宙一切合切が‘宇宙真実光’だということだ。それぞれにはそれぞれの存在理由がるがゆえに存在しているはずである。
私たち人間は取捨選択して人間が生きやすいように制御して生きている。その制御がこわれて暴走した時、人類は終焉を迎えるのだろうか。

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