/ 86.「念仏には無義をもって義とす」に思う
『歎異抄』の‘十条’には、
「念仏には無義をもって義とす。不可称、不可説、不可思議のゆえに」
と書かれている。
この段をどう解釈するかというのが難問とされてきたようである。浄土真宗の宗門では「義」を‘はからい’とか‘作為’としているようである。そして、「無義」の「義」を‘自力のはからい(作為)’とし、その後にある「義」を‘本願他力のはからい’としているようである。また、作家の高橋源一郎は‘念仏というものは、わかる必要がないのだ’と現代語訳している。
私は、「無義をもって義とす」の手がかりの一つとして道元禅師に触れてみたい。
道元禅師は『普勧坐禅儀』で、‘善悪を思わず、是非を判断してはなららい。思いめぐらすことや考え事をやめ、何かを念じたり何かの姿を思い浮かべたり何らかの観念を観相したりするというはからいを止め、仏になろうとしてもならない。’(私意訳)と言う。そして、ひたすらただ坐禅の姿勢にまかせて坐禅せよ、と説いている。いわゆる只管打坐である。
私は、「無義をもって義とす」は、‘善悪を思わず、・・・’のことだと理解する。「義」とは、正義とか主義の‘義’と同様に、イズムやイデオロギーのような当然とされる観念のことだと考えるのが自然のように思う。そういう当然とされる観念や思量分別を止めて、ただひたすら念仏するだけだと言っていると思う。観念や思量分別を越えた念仏であるがゆえに、不可称であり、不可説であり、不可思議というしかない思い量ることのできないありようなのだと。
‘善悪を思わず、・・・’、ただ念仏という行に任せきる、すなわち‘只管念仏’ということではないだろうか。ただ念仏にまかせるがゆえに、‘絶対他力’といえるのだと思う。
‘弥陀のはからいにまかせる’とは、‘阿弥陀さまよ、このあわれな私を助けてくだされ!’という助平根性を親鸞は否定しているはずである。‘騙されて地獄に落ちても後悔せず、煩悩深重の我が身には必定地獄が我がすみかでしかない。阿弥陀よ、この私をどう煮ようが焼こうが構わない。見捨てられても仕方ないこの身。救われたいという思いも捨てて、この私すべてを阿弥陀にゆだね、まかせます。’でなければならないのだと親鸞は言っているように聞こえる。
‘弥陀の本願他力’は、煩悩まみれの私たちを、自力の心を捨てれば必ず浄土へ往生してくださると『歎異抄』は言う。私は、これではまだ自力の心がなくなっていないと思う。なぜなら、浄土へ往生してくださるという、すなわち、救ってくださるという思いが存在しているからである。そういう思いも捨ててすっからかんとなって念仏することこそが、絶対他力のはずである。このすっからかんとなった念仏を、法然の弟子であった証空は‘白木の念仏’といわれた。
今の浄土真宗では、念仏を‘報恩感謝の念仏’としている。これでは念仏に‘報恩感謝’という色をつけてしまっている。弥陀は恩を売ろうとか感謝されたいとか思っていないはずである。そんな見返りを求めているならばすでに仏として失格だ。俗人でしかない。凡夫に報恩感謝されて弥陀はうれしいのだろうか。弥陀は私たち凡夫に一切の思いを投げうって丸裸になって弥陀の念仏せよ、と叫んでいるのではないだろうか。

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