/ 93.永遠なるものに生きるということ
「永遠」は宗教の世界では洋の東西を問わずよく耳にする言葉である。‘永遠の命に生きる’とか‘永遠に帰る’とか‘永遠なるものを求めて’などと使われる。その「永遠」は、キリスト教では‘キリスト’とか‘天国’、‘神の国’とも言い換えられる。仏教では特に浄土系では‘阿弥陀仏’がそれに相当するといえる。私は仏典の現代語訳で、‘宇宙いっぱいの真実’とか‘生のいのち’とというフレーズを使っているが、この言葉も「永遠」と同義語である。
多くの人は、「永遠」と聞くと何か絶対に死ぬことのない不老不死のような、絶対に壊れることのない光り輝くダイヤモンドのようなイメージを思い浮かべているのではないだろうか。少なくとも、「永遠」にはプラスの満点という絶対肯定の評価を与えているように感じる。しかし、私は「永遠」は肯定も否定も超越した絶対無のものとして捉えている。‘こうでなければならない’とか‘これが理想であり、絶対だ’とかいうものは存在せず、‘あるのがあるだけだ’というだけだ。
あるキリスト教信者は‘信仰は人の属性にあらず、信仰は信仰を完成せられたキリストによって与えられる’と言う。ある念仏者は‘阿弥陀仏から極悪深重のわれら凡夫は信心をいただくほかない’と言う。ヨーロッパ中世に活躍したカトリックのエックハルトは、虚心の祈りこそ神の御心にかなうと言った。‘天国に導いて下さいますよう’とか‘苦しむこの身を救い取って神の国に参れますように’などと願うのはかえって神から遠ざかる、なにも思わず、願わず、ただ無心に祈ることに神との出会いがあるのだ、と言った。道元禅師は、只管打坐とは「仏のいえになげいれて」「万法に証せらるるなり」と言った。
これらはある一点で共通している。すなわち、自分のはからいや思量分別を投げ捨ててただ行じている姿勢を行うということである。ただ祈るだけ、ただ称名するだけ、ただ坐禅するだけ、ということだ。善悪・是非・比較などという思慮分別や価値判断をやめたところに「永遠」があるということだ。
世界にしろ、個人にしろ、いろいろな問題は人間の勝手なアタマから生じているといっても過言ではないだろう。思い込みや独りよがりから解放されて本来の生命の働にに立ち帰ることを、永遠なるものに生きるということだと思っている。アタマをマッサラにするために、‘ただ○○する’必要が大きくなっているこの頃のように思う。

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