94.宗教における‘善悪’の罠  神谷湛然 記

/  94.宗教における‘善悪’の罠

 米のトランプ大統領に、キリスト教福音派のなかで特に強硬派といわれている人たちからの影響が強いようだと、あるテレビ番組でゲスト出演した宗教学者が指摘していた。彼ら福音派強硬派は、聖地エルサレムを守るイスラエルは神から遣わされた善の使者であり、サタンなる悪者・イランを攻撃するのは神の御心にかなうのだと言っているようである。この話を聞いて、宗教の陥りやすい落とし穴を思わずにはいられなかった。
 ある宗教者は、自分の属する集団の考えや価値判断、言い回しを真なるもの・善なるものとして位置づけ、それ以外の集団や考え、言い回しを邪なるもの・悪なるものとして排除しているともろがあるように思う。仏教でも、仏教以外を外道として批判し、排除した歴史がある。さらに、仏教内部の他宗派に対しても攻撃したことがあった。中世日本には、「真言亡国 律国賊 念仏無間 禅天魔」と呵責ない攻撃した日蓮は日本史上最も峻烈な糾弾者といえるかもしれない。もっとも、日蓮自身は当時の仏教内部における矛盾と堕落を批判して本来の仏教に帰れ、と主張したかったのだと私は思っている。
 私も、かって修行していた曹洞宗・安泰寺のやり方や言い回しを唯一真なるもの・善なるものとして絶対視して、そこからものごとを判断していった過去があった。いわゆる‘禅天魔’であった。今にして思えば、未熟なるがゆえにやり方や言い回しに捉われて本質がわかっていなかったと振り返って思う。
 なにをもって善といい、なにをもって悪というのか。自分の教義や言い回しに合うのが善で、合わないのが悪といっているのが多いようにみえる。多様性を認めて、‘みなさん、仲良くしましょう’と言いながら、自分の信じている宗教以外は内心では悪の邪教だと思ってはいないだろうか。その証拠に、例えば、豚肉を売っている店や豚肉を食べる人をイスラム教やユダヤ教の信者はいぶかしげに眉をひそめている話を見聞きする。また、ヒンズー教では、牛は尊いから殺したり食べたりしてはならないとしている。悪なるものだから食べてはならないと一方は言い、他方は善なるものを食べるのは悪だと説く。仏教では、肉食は悪だという観念は今も残っているところがある。肉食は不殺生戒を犯すことになるから、いわゆる精進料理でなければならないという観念が明治になるまでは強かったように思える。それでも、釈尊は托鉢で布施された肉料理を喜んでいただいたという話が経典に残っている。道元禅師はその話に理解不能と悩まれたようである。インドでは、元々、肉食が許されないという観念はヒンズー教の源流であるバラモン教にあった。それに対して、釈尊は肉食しようがしまいがあらゆる人は法の前ですべて平等だと主張したのだった。
 なぜブタを汚れたものと見るのか。なぜウシを尊いものと見るのか。なぜ肉食は許されない悪行で、菜食は最高の善食だと考えるのか。つきつめて考えたとき、人は勝手な取捨選択して‘善悪’のレッテルを貼り付けることに気づかされるのだ。
 私は、聖書や仏典、さまざまな賢者たちの話などを私なりに考えてみた時、たとえ神の御名で語られようとも人間から発せられるものはすべて間違っていると教えているように思う。真実は人間のアタマの外にあるのだと諭しているのだと思っている。
 聖書では真実は‘神の国’にあると説き、仏教では人の思慮分別を越えた仏にあると説く。つまり、勝手な思慮分別をやめてそのものがそのものとして純真になったとき、‘神の国’や‘仏国土’が現われるのだということである。
 『証道歌』では「妄を除かず、真を求めず」「本来無一物」と言う。『信心銘』では「真を求めることを用いず、唯だ必ず見を息(や)めるべし」と言う。新約聖書の『マルコ伝』では「私たちは妄想のなかに生きるのではなく、今ここにやってくる神の国の現実のなかに生きることができますように」と言い、『ヨハネの第一の手紙』には、神は「理由なしにあなたを愛して下さって」いる、「実在の神様と命のつながりのなかに生かされていくのです」と言う。
 真の意味での神や仏の世界においては、比較も是非もなく、すべてがそれがそれとして完成せられているということだ。戦争や犯罪は善悪や是非を立てて自分以外を否定しているがゆえに、神からも仏からもまったく外れているということだ。宗教という衣をかぶった差別者、排外主義者にだまされないよう、確かな目を持ちたいものである。

(追記)
 「破邪顕正」ということばが宗教の世界ではよく用いられることがある。ある宗教集団が他の宗教集団を弾劾・批判する意味で使われることが多いようである。それは間違った「破邪顕正」の理解だと私は考える。真の意味での「破邪顕正」は、自分ないし自分の属する集団のみを肯定して他者ないし他の集団を否定する見方を弾劾・批判するところにあると私は考える。思慮分別して善悪・真妄・是非を立てる観念を打ち破ることにこそあるのではないかと思う。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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