/ 85.「山川草木悉皆成仏」に思う
釈尊は菩提樹の下で坐禅していた時、暁の東の空に輝く明けの明星が目に入った途端、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)」と快哉したといわれている。私なりに訳せば、‘山や川、草や木が、いやそれどころかことごとく皆すべてが既に宇宙真実光であったことに初めて気づかされた’としたい。
「成仏」とは、‘仏になる’ということではなくて、‘すでに仏であったことに心底から気づかされた’と私は理解している。そして、その‘仏’を‘宇宙真実光’と言い換えられるとしている。そういう‘成仏’に理解することについては、前稿の「83.‘宇宙真実光’とは」に記させていただいた。
小椋佳作詞の『山河』という歌がある。先日、私の先輩僧から郵送されてきた彼の発行する寺新聞にその歌詞のことが書かれてあったので、ついでに私なりに『山河』について記してみたいと思う。
‘山河に生まれ、山河に生き、山河に死んでいく’という意味の内容と思う。‘山河’とは、釈尊の「山川草木悉皆」に相当するように思う。大自然とか宇宙とも言い換えることもできよう。そして、そういう‘山河’は、私たち人間に地震や火山爆発・暴風雨小惑星衝突の危機などという甚大な災害をももたらす存在でもあるということだ。いや、現代においてはそんな災害どころか、戦争や核爆発危機などによる人災のほうが大問題といえるかもしれない。
『山河』の歌の最後には、‘愛する人の目に 俺の山河は美しいかと’というくだりがある。ここでの‘山河’は人生のことを言っているように聞こえる。私は根本を問う宗教観点から、この言句をこう言い換えたい。
‘愛する人’を宇宙真実光とし、‘美しい’を純一無雑に輝いているとしたい。すなわち、‘宇宙真実光の目に 俺の人生は純一無雑に耀いているかと’としたい。
善悪とか上下・優劣・貧富など、他と比較する世間的基準や観念に毒されることなく、‘俺の山河’は‘俺の山河’として自分の命を輝かせているのかと問いかけているのだと。
どうしても自己中心にないがちな人間において、宇宙真実光に立ち返る行いが絶えず求められているように思う。この絶えざる行いが、成仏であり菩薩であり‘覚有情’であり、ただ今ここに生きるということだと思っている。そこには自然と衆生済度と慈悲の働きが出ているはずである。布袋さんがなんの話もすることなく、ただそこにおられるだけでまわりを教化しているごとく、説法することなく説法しているのだと。

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