34.信心銘 その1  神谷湛然 意訳

/  34.信心銘
     (宇宙いっぱいの不二を疑いなく受容するとは何かを書き記す)

信心銘 1
至道無難 唯嫌揀擇
但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔
欲得現前 莫存順逆
(私訳)
 宇宙いっぱいの真実に至ることは難しいことではない。ただ、あれかこれかと思量分別することなかれというだけである。
 あれはいやだ、これは良いとかいう価値判断しなければ、宇宙いっぱいの真実は目の前にはっきりとあらわれているのだ。
 しかし、そこに少しでも価値判断が入り込めば、宇宙いっぱいの真実から遠ざかること、天(宇宙)とこの地上の間よりはるかに遠ざかってしまう。
 宇宙いっぱいの真実を得たいと思うならば、これは自分にかなっているから運が良いとか、あれは自分にとって悪くて不運だとかいうような思量分別してはならないのだ。

信心銘 2
違順相爭 是爲心病
不識玄旨 徒勞念靜
圓同大虚 無欠無餘
良由取捨 所以不如
(私訳)
 良し悪しを立てて取捨選択することは心の病となる。
 宇宙いっぱいの真実という根本を知らなければいたずらに心を煩して落ち着くことができようか。
 宇宙いっぱいの真実は完全無欠なることは大いなる宇宙と同じであり、どこかが欠落しているとかどこかに余分なものがくっついているとかいうことはなく、それがそのままで満点なのだ。
 取捨選択してこれは良いものだとするのは、如是という宇宙いっぱいの真実から外れてしまう。

信心銘 3
莫逐有縁 勿住空忍
一種平懷 泯然自盡
止動歸止 止更彌動
唯滯兩邊 寧知一種
(私訳)
 ものごとは確固として有るのだという世間の観念を追いかけてはならないし、ものごとの実体はないのだとして空となのだとして空の論理に執着してはならない。(色は色ならず、空は空ならずということだ。)
 宇宙いっぱいの真実は分け隔てできない一枚そのものに他ならず、有も空もおのずからその一枚に尽きて収斂する。
 あれこれと詮索して分別することを止めて、無分別だといって現実の区別を無視して思考停止してバカになっても、その思考停止はさらにますます心が動揺してあれこれと思いをめぐらしてしまう。
 動(すなわちあれこれと分別すること)とか止(すなわち無分別だとして思考停止すること)に滞ってはどうして宇宙いっぱいの真実という一枚を知ることができようか。

信心銘 4
一種不通 兩處失功
遣有沒有 隨空背空
多言多慮 轉不相應
絶言絶慮 無處不通
(私訳)
 宇宙いっぱいの真実という一枚に通じていなければ、有とか無・良し悪し・優劣・上下・迷いと悟りなどという相対立する二見によって本当のありようを見失ってしまう。
 有を捨てようとすれば有に埋沒してしまい、空にしたがおうとすれば空にそむいてしまう。
 いくら言葉で語りつくそうとしても、いくら考えつくそうとしても、宇宙いっぱいの真実を言い当てることはできない。
 言葉を絶し、考えを絶したところに、宇宙いっぱいの真実に通じないというところはない。(宇宙いっぱいの真実は言葉とかいう概念や思慮分別を超越したところにあるのだ。つかまえようとしてもつかまえることのできない、これといった凝り固まったもののない千変万化する諸法無自性だからだ。)

信心銘 5
歸根得旨 隨照失宗
須臾返照 勝却前空
前空轉變 皆由妄見
不用求眞 唯須息見
(私訳)
 宇宙いっぱいの真実という根本に立ち帰るならば、宇宙真実の中身を会得できる。目で見たり耳で聞いたりなどという自分の感覚世界や思う意識世界を真実だと思い込んでしまうならば、宇宙いっぱいの真実という世界の本質を見失ってしまう。(個々に目のクセ、耳のクセ、思いのクセなどという感覚意識のクセ、言い換えれば色メガネで世界を眺めているのだ。)
 一瞬でも、宇宙いっぱいの真実から自分のほうを照らし返す(すなわち三昧のこと。坐禅なら坐禅ぎり、見るなら見るぎり、聞くなら聞くぎり、食べるなら食べるぎりということ)ことは、概念として思っている空(すなわち色のほかに空があるとか、迷いとは別のところに悟りがあるとか、妄を除いて真を求めるとかいうような二見を立てる見方)を克服して一にする。
 概念としての空にすぎないものはあれかこれかに振り回されて転変するのは、みな勝手なつくりものの観念によるものだ。
 真(すなわち仏とか悟りなどという宇宙いっぱいの真実)を求めようとしてはならない(なぜなら、真と妄の二見を立てて妄を除いて真を求めるという自分のはからいがあるからである)。ただ、二見を立てる思慮分別をやめることだ(すなわち、善悪を思わず是非を管せず、心意識の運転を止め、念相観の測量をやめて、仏になろうともしないおとだ)。

信心銘 6
二見不住 愼勿追尋
纔有是非 紛然失心
二由一有 一亦莫守
一心不生 萬法無咎
無咎無法 不生不心
(私訳)
 善悪・是非・真妄・迷悟・優劣などという二見を立てる見方を持たず、また、その二見を追い求めようとしてはいけない。
 少しでも是非などという二見があれば、滅茶苦茶に宇宙いっぱいの真実を失ってしまう。
 元々から、‘これは是だ、あれは非だ’とは決まっていない。元々決まっていない‘そのもの’たる一から二見が生じている。かといって、すべては無分別無差別だとしてそれぞれのものごとのはたらきの違いを無視して一に執らわれるのもあやまりであるゆえに、‘一も守ることなかれ’といっている。
 宇宙いっぱいの真実という一心は本来すでにあるがゆえに不生不滅であり、すべてのものごといは何のプラスマイナスがない(そのものがそのものとして完全無欠である)。
 本来プラスマイナスがないということは、また、すでに本来ある(すなわち不生ということ)のだ。宇宙いっぱいの真実という心とものごとのありようという法とが別々に二つあるのではない(心外無別法、すなわち心の他に法がなく、心と法が一体となっている。そのものがそのものとして完結しているのだ。)。

信心銘 7
能隨境滅 境逐能沈
境由能境 能由境能
欲知兩斷 元是一空
一空同兩 齊含萬象
不見精粗 寧有偏黨
(私訳)
 (能とは、目耳などの感覚器官と意識を持つ主体、すなわち自己のこと。境とは、その自己によって生じた感覚世界と意識世界のことで、対象にあたる。) 自己は自分の思っている感じている対象に自己があり、対象は自己と一体である。
 対象は自己によって対象とない、自己は対象によって自己となる(自己と対象は一体である)。
 是非などの相対立する二見はいったい何なのかを知りたいと思って見たら、二見は実体として存在せず、元からそのものがそのものとしてただあるだけだという、一にして空だと分かる。
 そのものがそのものとしてただあるだけであり、元から二見はあったのではない。その一にして空というありようのものごとは、二見が立てられているものごとと同じ体であり、その一にして空はあらゆるものごとに等しく行き渡っている。
 精粗(好き嫌い・良し悪し・上等下等・優劣などということ)などという見立てはどこにも決まってあるわけではないから、このような二見を立てなければ、片寄った価値判断や思慮分別がどうして出てきようか。

信心銘 8
大道體寬 無難無易
小見狐疑 轉急轉遲
執之失度 必入邪路
放之自然 體無去住
(私訳)
 宇宙いっぱいの真実という大道は元々からゆったいとあり、勝手な見をやめばその大道に至ることは難しくない。だがその勝手な見をやめることがなかなかできない者にはその大道はやさしいことではない。
 小見という勝手な見に執らわれる狭い了見は狐のように疑い深いゆえに、大道を一刻も早くものにしたいと早合点して曲解したり、いろいろな理屈をこねくり回して長々と論じたりしてなかなか大道という核心に至らない。
 この小見に執らわれて宇宙いっぱいの真実を失って、必ず間違った道に入ってしまう。
 この小見を手放せば自然と、行くことなし留まることなし、すなわち、とらわれのない自由自在の働きを得ることができるのだ。(宇宙いっぱいの真実き生きるということである。)

信心銘 9
任性合道、逍遙絶惱
繋念乖眞、昏沈不好
不好勞神、何用疎親。
欲趣一乘、勿惡六塵、
六塵不惡、還同正覺。
(私訳)
 宇宙いっぱいの真実という大道に身心を投げ出して任せていけばその大道にかない、悠々と大道に遊んで、二見に振り回される悩みも絶えてしまう。
 あれこれと思ったり考えたりして見を立てるのは宇宙いっぱいの真実にそむき、そういう見にどっぷり振り回されて心が暗くなって好き嫌いに走る。これはよろしくない。
 このよろしくない思い煩いによって精神が疲労してしまう。どうして‘あれは疎くて冷淡だ、これは親密だ’などという二見を用いて精神によいことがあろうか。
 宇宙いっぱいの真実という極意にに至らんとするならば、目や耳などの感覚や意識によって生じる現実のこの世を悪く思わないことだ。
 現実のこの世を悪く思わないならば、かえって正覚すなわち悟りの境地(宇宙いっぱいの真実というありよう)と同じである。(すなわち、‘色即是空 空即是色’ということである。)

信心銘 10
智者無爲、愚人自縛、
法無異法、妄自愛著。
將心用心、豈非大錯、
迷生寂亂、悟無好惡。
(私訳)
 二見に惑わされない目を持った真実の大いなる知恵ある人はつくりものではない生のありよう(宇宙いっぱいの真実ということ)に生き、二見に惑わされてヤッサモッサする愚かな人はその迷惑に自ら束縛されてしまう。
 ものごとのありようはそれと異なるありようなど元々無く、それがそれとしてあるだけである。それを愚かな人は実体としてありもしない価値判断や思慮分別に執われて無盲目的に自然とその妄想に執着を愛してやまない。
 迷いや煩悩は悪だからそれと相対立する悟りや菩提という善なるものを求めようとする思いでもって、ものごとを見ようとするのは、大きな謝りではないとどうしていえようか。(二見を立てることなく、迷いは迷いぎり・悟りは悟りぎり・煩悩は煩悩ぎり・仏は仏ぎりで、そのものがそのものとしてただあるだけで、まったく二のない一ばかりである。)
 二見を立てて迷惑するのは心をかき乱し、宇宙いっぱいの真実に至れば好い悪いなどという二見を立てることはない。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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