24.戒、とくに不殺生戒・不飲酒戒・不邪淫戒について  (神谷湛然 記)

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  24.戒、とくに不殺生戒・不飲酒戒・不邪淫戒について

 十戒というのがキリスト教や仏教などにある。モーゼの十戒は世界的に有名である。その十戒のなかで不殺生戒・不飲酒戒・不邪淫戒の三つは古来からよく問題にされてきたのであるが、私もここでこの三つの戒律について私なりに考察してみたいと思う。
 まず、不殺生戒である。‘生’とは何か、それを考えてみる必要がある。‘生’は生命とか生物のことと推察される。つまり生きとし生けるものすべて、となる。ウィルス・虫から人間にいたるまでの動物やカビ・苔から樹木にいたるまでえの植物(そこには野菜も当然はいる)のすべてとなる。だとするならば、不殺生戒の下では私たちは何も食するものがなにおないということになる。肉も野菜も米や麦を加工した飯・パンも口にできないということになる。肉食は動物を殺して食べるからよくないが、菜食は植物を食べるから殺生ではないのだと言い張る者が古くからいるが、手前勝手な理屈である。菜食も生きた野菜という生命ある植物を調理して食べるのであり、腐ったもの即ち生命を失った野菜は食べない。生命の実相をみたとき、生命は他の生命を奪ってしか生きられない存在であるということである。植物も他の生命の腐ってできた肥しを栄養にしている。
 偉大な宗教者の食生活はどうであったであろうか。イエスは聖書では干し肉を食べ、最後の晩餐では葡萄酒とパンを弟子とともに食事したという。釈迦は供養された肉料理を喜んで受け取って食したという。イスラムでは豚以外は許され、ヒンズーでは牛以外はかまわないという。私のみたところ、仏教経典には肉食は駄目だとは書かれていないようである。いつから肉食はいけないという観念が生まれたのであろうか。仏教界でいうならば、仏教が中国に伝来してから肉食禁止の観念がみられるとある仏教学者はいう。なぜなら、中国の民間宗教である道教の道士は肉や魚、ニラやニはいうンニクの類などの五辛を禁じられていたからであると聞くからである。小乗仏教といわれる上座部仏教では供養された肉料理はいただいている。仏教が老荘思想や儒教中などの国特有の思想と混ざりあってできた観念のようである。それが日本にも及んで肉食はタブーとなったのではないだろうか。現在では菜食はヘルシーで環境にもやさしい食べ方とされている。肥満の大きな原因とされる動物性脂肪を避け、温暖化の原因とされる二酸化炭素をよく排出する畜産ではないからということである。しかし、栄養学的には高品質のタンパク質をもつ肉を体に入れないと抵抗力の低下や老化の進行、低栄養状態をきたすことがあるといわれている。高齢者ほど意識して肉を食べるべきだと現在医学は主張している。
宗教宗派によって食べてよいもの・悪いものが異なっているが、肉食に対する強い宗教的嫌悪感は東アジア特有のようである。精進料理というカテゴリーは他地域ではみられないように思われる。動物は動く生命であるから殺すことは許されないが、植物は動かない生命であるから殺すことにはならないので問題なく食べられるのだという観念は実は生命に対する冒涜だと私は考える。なぜなら植物は動かないようにみえるのは人間の勝手な錯覚であって、実は彼らも生い茂らせている葉に無数の気孔を閉したり開いたりしてさかんに呼吸し、日々形を変え、生長し、きびしい環境にはそれに対応して生きようとする。砂漠でのサボテンのような多肉植、泥中で育つレンコン、日陰を好むシダ類やミョウガ・ミツバなど、環境に適応してできあがった存在である。生きんとする生命力のあらわれそのものである。このようにして考えてきたとき、不殺生戒はなんのために設けられたのであるのか、考えざるをえなくなるのではないだろうか。
 不殺生戒は生命の実相から考えるならばむやみに生命を殺めることなかれといっているのではないかと私は考える。己の生命を支えてくれる糧として他の生命を感謝していただくのだ、といっているのではなかろうか。五穀豊穣を祝う祭りや恵に対する海・山・田などの紙への儀式は糧を与えて管だった大自然への感謝であり祈りでもあった。生命を粗末にせずに感謝して頂戴するということが不殺生戒の本質だと私は考える。そこから日本も含めて世界の宗教をみたとき、神に感謝して食する風景が理解できるのである。その感謝をさらに進めて、いただいた生命でもって己の生命を生き生きと輝かしめることが生命を生かすことになるのだといえよう。泥棒の飯は飯を冒涜し、奉仕の飯は飯を崇高なものとするということである。
  次に不飲酒戒について考えてみたい。
 不飲酒戒はアルコールを口にしないということであるが、これを厳しく課しているのがユダヤ教とイスラム教といえるだろう。ムハンマドが7世紀に現れてから中東では徐々にアルコールが禁止され、今ではイスラム世界では飲酒することは禁止となっている。キリスト教ではブドウ酒は神の血としておごそかに飲まれている。神道では日本酒はお神酒として尊崇されている。仏教でも酒を智慧のスープなる般若湯と称して飲酒する出家者がいるが、建前としては飲酒は禁戒となっている。仏教においては不飲酒戒に対して曖昧なところがあるので、詳しく考えてみたいと思う。
 仏教はインドにおいてはヒンズー教とともに飲酒に対して厳しい態度で臨んでいるという。しかし、時代とともに変遷していることが指摘されている。正木晃氏は次のように述べている。少し長いが引用する。

 では、なぜ、酒を飲んではならないのか。その理由を、最古の仏典とみなされている『スッタニパータ』第二章におさめられている「ダンミカ経」は、ブッダ自身の言葉として、こう説明している。
また飲酒を行ってはならぬ。
この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてはならぬ。他人が酒を飲むのを容認してはならぬ。
これはついに人を狂酔せしめるものであると知って。
けがし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、
また他の人をして怠惰ならしめ、悪事をなさせる。
この禍いの起こるもとを回避せよ。
それは愚人の愛好するところであるが、しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。
(中村元訳『ブッダのことば―スッタニパータ』岩波文庫)
要するに、酒に酔って、悪いことをするから、酒を飲むなというわけで、至って常識的な見解である。もっとも、こう言うと、酒を飲んでも、酔わなければいいのではないか、という声が聞こえてきそうだが、酔っていないか、酔っているかの判別は、酒を飲んでいる当人にはできないと言い返されると、その反論は難しい。
ブッダが禁じた理由、それでも切れない酒との関係
ちなみに、出家する前のブッダは酒を飲んでいたという。そして、酒に酔った者が醜態をさらす姿を目の当たりにしていたらしい。
仏伝として最も有名なアシュヴァゴーシャ(馬鳴 紀元後1世紀)作の『ブッダ・チャリタ(ブッダの生涯)』に、こんな記述がある。
ここに登場する「女」は、あまりに真面目一方のブッダを、楽しませてやって欲しいと父王から依頼された遊女たちである。なお、ブッダは彼女たちから性愛の高度なテクニックを学んでもいる。
また、ある女は髪整わず、振り乱し、装飾品をつけた絹衣の裾も臀よりずれ、首飾りの糸も切れて散乱し、あたかも象にこわされた彫像の女のような態なして横になっていた。
また、別の女たちは、平素、つつましく、容姿の美徳をそなえていたが、いまや自制心もきかぬままに、羞恥心もなく、横になって高いびき、腕を投げ出し、取り乱して仰向けになっていた。
他の女たちは装飾品、花環がそのあるべき位置よりはずれ、衣の結び目はほどけて、意識もなく、眼は不動の白眼を?いたまま、あたかも死んでしまったように横たわり、およそ見られた態ではなかった。
また、別の女は口をぽかんとあけ、大の字に身体をひろげ、涎を垂らし、陰部を露わにし、あたかも酔いつぶれたかのように横たわっていた。彼女は美しからず、むしろその容姿を醜くしているだけであった。
(原実訳『ブッダ・チャリタ』中央公論社)
このように、ブッダは飲酒を厳禁したが、インドの宗教界では、酒は神々と交わる聖なる場を提供する役割を果たす伝統もあった。インド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』では、「神酒(ソーマ)」のように、祭祀にあたって神々にそなえられる酒が神格化されている。ただし、「神酒(ソーマ)」は、酒類(アルコール飲料)ではなく、幻覚性の植物から抽出された飲料という説もある。
さらに、仏教でも、最後発の後期密教では、ガナチャクラといって、生身の男と女の修行者たちが、所定の場所にペアを組み、天体の運行に合わせて、何日間も、パートナーを交換しながら、性的ヨーガ(性行為を必須とする瞑想法)を中心とする特別な儀礼も実践されていた。その際、飲酒がおこなわれた可能性がある。現に、「酒に満たされた髑髏杯」とか、「酒を飲み肉を喰らうのは、ガナチャクラにほかならない」という記述が残されている。

 正木氏の既述を参考して考えたとき、釈迦は飲酒することも飲酒させることも禁じただけでなく、酒そのものを抹殺しようとしていたと思える。酒はいかなる理由があろうと百害あって一理なし、ということである。それが、最後発の仏教である密教ではヴェーだー思想に大きく影響されたかのように飲酒と淫欲を神々の最高の行為として位置づけられるようになったといえる。アンコールワットに残る彫像や装飾には艶めかしい女性の姿や男と女の絡み合いがたくさんあって、セックス大万歳のような様相である。中国や日本における仏教では酒は‘百薬の長’とか‘酒精’なる最高の飲み物として崇められる風土のなかで、説きと場を弁えてなら飲酒はある程度構わないとなっていったようである。
 飲酒に対する強い拒絶を持つ思想の背景には、創始者が酒に対してただの害毒でしかないことを身にしみて体験していることが大きいようにみうけられる。また、飲酒を厳禁しているユダヤ教・イスラム教・原始仏教の共通項は砂漠や熱暑という風土であることである。つまり、身体が熱くなってほてりやすいということである。これは欲望が刺激されやすいということでもある。私たちも美空ひばりの歌う‘真夏の太陽’を聞くと心も体も浮き立って一気に欲望を発散したくなるのではないだろうか。ユダヤ教・イスラム教・仏教の創始者たちは欲の自制し難いことを悟って欲の元を断じようとしたのではないだろうか。その一つが酒であったと思う。ところが、ヨーロッパや中国・日本のような穏やかな温暖地帯では強張った心と体をほぐし、血液循環をよくして体を温めるという薬的作用を認めて酒を欠かせないものとして受け容れているといえる。ただし、そういう地域にはアンコールワットや最後発仏教の密教の極至とされるエロチックなエロス丸出しの芸術はあまりみられない。温暖なる気候ゆえに衣服を身につけるのが普通であって裸になることは日常的にあまりないからであろう。
 地域によって風土によって時代によって飲酒に対する観念が異なることを鑑みたとき、不飲酒戒は害としての酒は飲むべからず、薬としての酒は貴いということだと私は解釈したい。なにをもって害となし、なにをもって薬となすのか。少量ならば薬限らない。下戸の者には酒は気分が悪くなって苦しいだけである。彼にとっては毒でしかない。上戸はいくら飲んでもしらふなとことがあり、ある限界を超えたとき一気に肝炎や大動脈乖離を起こして死期を早めることがある。酒で身を滅ぼすことは今でもよくあることである。逆に酒を巡るポジティブなエピソードがある。江戸時代末期から明治末期の長きにわたって活躍した禅僧、西有穆山は尊王攘夷が盛んだった江戸末期のとき、寺に押し入った武士らに対し奥からとっくりを持ってきて‘その前に一杯やらんか’と言って武士らを坐らせて一緒に酒を飲んだところ、武士たちは‘ええい、やる気なくしたわ、帰ろう’と言って立ち去ったという。いきり立った感情が消え去って刃の向けどころをなくしたからであろう。こんな発想はブッダ・釈迦にはなかったであろう。
 酒の功罪をよく弁えて、功としての酒は活用し、罪としての酒は徹底的にしないということが不飲酒戒の本意とするのが自然であり理にかなっていると思うのである。ただ、私個人は酒はあまり好きではない。父親が酒で失敗したことを目の当たりにしたこともあって酒にはあまりよい印象をもっていない。一時的には快感を覚えるが後で気分が悪くなってひどい倦怠感が残るだけである。普段はノンアルコールビールやカテキン茶を愛飲している。こえがまことに丁度良い。ただし酒粕で漬けた奈良漬や西京焼は大好きである。こうじの味と香は私にはたまらないのである。
 戒律は悪を避け善を行うためのきまりである。不飲酒戒は悪の避けはするなかれ、するなら善い酒をしなさいということである。酒自体には善悪はないはずである。酒を悪とするのか善とするのか、その人次第だということである。
 最後に不邪淫戒について考えてみたい。
 仏教では在家信者向けの戒律である五戒では不邪淫戒となっているが、出家者向けの戒律では不淫戒となっている。不邪淫戒は妻以外の女性と密通してはならないとされ、不淫戒は一切の女性と密通してはななない、当然妻帯も許されないとされている。この戒についてやかましく言うのはキリスト教カトリックと仏教であろう。イスラムでは出家という概念がないので聖職者も一般人と同様に妻帯ができ、男性は四人まで妻を持つことが許されるとする。日本神道でもイスラムと同じように出家という概念がないので紙官も妻帯が許されている。不邪淫戒が在家として妻以外の女性と密通してはならないというのは、イスラムも含めてたいていの宗教が言っていることである。社会通念的にも当たり前とされている。そういう意味では現在でも不邪淫戒は抵抗なく是認されるであろう。問題は出家者である。だから正確には出家者の不淫戒について考えるということになる。
 出家者に対して不淫戒を課しているのはカトリックと浄土真宗以外の仏教である。実際には古くから陰で愛人を囲ったり少年を相手に男色に耽けtったりしていたことがよく知られている。今や有名無実となっている不淫戒を今でもカトリックや仏教はこの戒を廃止しようとしない。その真意は何であるのだろうか。
 私は、スタンダールの」赤と白」や平野啓一郎の「日食」、三島由紀夫の「金閣寺」、水上勉の「雁の寺」を読んだことがあった。前者二編は中世フランスカトリック寺院を舞台とし、後者二編は昭和の戦前から千五まもなくにかけての臨済宗の寺院を舞台としている。臨済宗は日本仏教において不淫戒を最も厳しく課しているとされている。しかし実態は不殺生戒・不飲酒戒も含め戒律全般において破られて有名無実になっていることをこれらの文学は暴露している。いかい戒とは何なのか、暗澹たる思いに駆られてしまう。宗教は政治的社会的に解決できない精神的苦悩を解決して生き生きとした人生を歩むためにあるはずだと私は前の章で述べた。戒律もそのために作られたものであるはずである。そこから考えて不淫戒の意味を考えてみたい。
 古い仏典によれば、釈迦は出家以前、真面目すぎる息子をなんとかさばけた人間にしようとした父王の策略によって召された多くの遊女と関わったことがあり、その後妻をもって子も設けた。出家後、釈迦は開悟して仏教を興したのち、かっての妻も子も出家させて仏弟子にしている。釈迦の十大弟子の一人である魔訶迦葉(まかかしょう)は出家前、家のために結婚したが、お互いに出家の望みを持っていることを知った上での結婚だったという。それ故お互いに指一本も触れることなくましてや一緒に寝ることもなかったという。彼は釈迦の元で出家して暫くして後、妻を釈迦の元に呼び寄せ、彼女も出家して仏弟子となったという。出家後もお互いに夫婦の契りを持つことなく修行したという。魔訶迦葉は釈迦と違ってまったく女を知らない純潔者ということになる。釈迦の死後、彼が教団を率いり、結集(けつじゅ)を行って釈迦の教えを集め、整理や取りまとめを行ったとされる。
 男女の交渉がないことが最も高尚で尊いというような観念が存在しているようである。魔訶迦葉は一生涯不淫だったということで尊崇されているのであろうか。ともあれ、原始仏教においては出家後修行者は男女関係を持たなかったことは確かなようである。修行という視点から考えてみたとき、一介の修行者として、私事なく色メガネでみることなく、その人をその人として独立した存在であり、上下関係も従属関係もない、すげてが‘法の前での平等’を貫徹するために、私事を伴いやすいものの一つである男女関係をも否定されたように思える。実際家族をもつと身内には甘くなり、特別なはからいを生じやすいものである。親バカとか身びいきは今でもよくあることである。日本のある首相が無能な息子を首相秘書官にしたことで世間から叩かれている。親バカの見本である。世界的にも古今東西、権力者が家族や親族を権力のある地位につかせたり利権を与えたりしていることは歴史が教えている。
 不淫戒は男女の関係なくすべての修行者・出家者が一人の修行者・出家者として修行を全うするために設けられたというのが真意だと私は考える。とするならば、男女関係がなくても魔訶迦葉のような純潔者であっても私事をしたり上下関係従属関係を抱く人は修行者集団・出家者集団には相いれないものだということである。自分は境地がすすんでいるから修行する必要はないとして高座にふんぞり返って修行に励む弟子たちを上から目線で見下ろしている‘お偉い方’がいる。
 現在日本では、妻であろうと子であろうと一人の人間としてあるという考え方がいくらか現れるようになってきてはいる。妻は夫の召使いではなく、子は親の所有物ではないということである。戦前は‘妻は夫に従がい子は親に従がいといえり’という封建的儒教的思想が濃厚であった。一人の独立した存在としての真理の獲得のために家族を捨て社会を捨てて一切のしがらみから解き放たれるために出家したといえる。逆に言えば、釈迦のいうように「自らを灯とし 法を灯とする」ならばなんらかの家族関や社会関係があっても修行できるということである。それが在家宗教の誕生であり、プロテスタントや浄土真宗はその代表格といえよう。
 以上のようにして考えてみたとき、不淫戒は、素っ裸の一介の修行者・出家者として生きる覚悟を問いた戒であるといえるのではないだろうか。男女関係がないために偏屈になったり代償として名誉欲や出世欲を果たそうとする出家者がいれば、男女関係のあるために私事をつくっええこひいきしたり放蕩したりする出家者もいる。不淫戒をあまりにも杓子定規的に把えてしまうと、歴史の示すように、生物としての人間をの側面を否定することになってしまう。生物のゆえに種としての人類が存在し続けていることを鑑みて性という存在の大きさと重要性を認識することがカトリックやいわゆる仏教に問われていると思う。最後発仏教である密教において男女交合すなわち性交が最高の秘儀とされたのは原始仏教に対するアンチテーゼとして高らかに生命を礼賛したものだとも言えるかもしれない。中世キリスト教の欲望否定主義からの解放として高らかに人間礼賛したルネッサンスのように。
 生身の生命を持った存在として、苦悩の絶えない存在として、一介の存在者として自ら地平を切り開いていく、その覚悟を不淫戒は問い続けているのだと思うのである。。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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