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38.年末に思う
まもなく2023年も暮れようとしている。毎年この時期になると年賀状のことが気になってくる。どんな内容にしようか、作製のための道具の準備、住所・名前のチェック、かかる経費や手間など思って多少気が重くなる。古い世代の‘文化’であろうか。若い世代はメールやlineで済ますのが多いと聞く。メーリングリストを作っておけばワンタッチで一斉に送信できる。しかも鮮明な写真や動画も添えることができる。郵便局が年々減っていく年賀状に頭を痛めていることは仕方がないかもしれない。それでも昔から変わらない思いがあるように思う。それは、友人や知人・家族や親戚・自分にとって縁ある人の‘訃報’ではないだろうか。
今年は私や妻にとって同世代の訃報が相次いだように思われて‘無常感’を身にしみて思われたことであった。そして年賀状欠礼のはがきが親類や友人から急に届いて、‘えっ!、もう亡くなったの?!’ということが多かったように感じた。有名人でも家族葬が一般化して身内だけで葬式を済ましてしまう風潮もあるのだろうか。それにしても60代から70代前半の人が世に別れを告げることがこんなによく相次いだものかと思ったのである。‘老衰’には‘よく生きてこられました。ごくろうさまです’という思いが出るように思うのだか、‘’ガンで死去’にはなにかやりきれない思いを感じるのは私だけであろうか。ついこないだまでテレビで元気に絶唱していたシンガーソングライターが大動脈破裂で72歳で急死したのは衝撃的であった。ただ言えることは、年とともに櫛の歯が1本1本抜けていくように感じる思いが齢を重ねるごとに強くなっていくことであろうか。子供のころは‘死’は遠いかなたのことで自分にとって程遠い存在のように感じたものであるが、年とともに‘死’が身近に感じてくるのは自然の成り行きであろうか。しかし、90歳を過ぎても元気に現役している‘たきみか’さんや若宮正子なんなどをみると、‘死’に怯えることなく現在を生き生きと生きている姿に生きることの意味を教えられているように思うのである。
マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」の主人公、スカーレット・オハラが人気なのは、南北戦争という動乱のなかで、荒々しい現実主義とへこたれない強靭な生命力でもって前へと前へと生きていく姿にあると思う。アメリカ南部の黒人奴隷制度に支えられた白人の貴族文化を古き良き時代と懐かしみ復活を果たそうとした人々の没落ぶりとは対照的である。‘過去’に生きるのではなく、‘今’に生きることの意義を説いていると私は理解している。
おもしろい実験がある。アメリカである研究者が恒例の夫婦たちに彼らが20代にあった部屋環境ーすなわち、時計もソファーン・テーブルなどの調度品、デザインや飾り、音楽やテレビ、食べ物まですっかり当時のままのところーに週十日間過ごさせたところ、20代のように頭も体も若返ったということであった。生理学的には肌は20年若くなったという。
この実験は、 年齢ではなく、生きる姿勢が問題だと言っているように思う。
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先月(2023年11月)中旬に妻と富士河口湖へ旅行した。平日にもかかわらず、三島からの河口湖行きの高速バスは満席で外国からの人が多かった。昼過ぎに河口湖に到着したが、芋を洗うような混みようでどこの食事処も長蛇の列で、私たちは少しすいていると思われる所へ行ったが30分以上待たされてしまった。聞こえる言葉は中国語が多かった。私たち夫婦の後ろに並んでいた人は台湾から一人で来たとかいう20代の青年であった。昼食のあと、車で10分のところにあるとかいう富士浅間神社に行こうかとタクシーに乗ろうと思ったら、1台も来ていないタクシー乗り場には30人以上も並んでいて、これでは1時間どころか先が見えないと見限って神社は諦めて少し早いが旅館に向かうことに決めて迎えの車を電話してお願いしたのであった。とにかくすごい外国人の数である。その日は妻によると(私は全盲なので)雲って富士山は見えず、緑のなかに紅葉があるとのことであった。そのあと、日暮れまで時間があったので外の店に出かけたが、ある店の店員さんにお客さんのことを妻が聞くと、9割が外国の人で日本人はあまりいないとのことで複雑な気持を漏らしたのが印象的だった。
翌朝、宿からすぐ近くのロープウェイに乗って天上山に上ろうと思って行ったらすでに100人ないし150人も朝早くから並んでいることに圧倒されたが、私たち夫婦は折角来たししかも快晴で富士山もくっきりということで、めげずに列に並ぶことにした。1時間待ってやっとロープウェイに乗れたがその間周りから聞こえる言葉は中国語が多く、すこし東南アジアらしい言葉も聞こえたが、日本語はほとんど耳にしなかった。天上山も外国人だらけであった。富士山と紅葉のながめは妻に聞くと最高ともことで富士山をバックにして写真をバシバシ撮った。写真をお願いしてもらった人は欧米人のようで英語をやっと耳にした。
昼頃に下に降りて徒歩15分で駅に付いた。駅前は相変わらずの混雑ぶりである。忍野八海行きのバスに乗ろうと思ってバス停に並んだが。列の最後を確認すべく妻がその人たちに声をかえると中国四川省成都から来たとかいう20代後半の男性と連れの女性は日本人の奥さんということであった。男性は以前大阪で何年か働いたことがあるとかで流暢な日本語を話された。私は横で聞いていたのであるが、中国で聞く日本と実際に行ってみての日本はまったく違うとの話は印象的だった。私たち日本人も日本でいて聞く中国の話と実際に中国に行っての印象はどうなのか、と心の中で思った次第である。満席のバスに40分揺られて‘おいしい水’の産地である忍野八海に付いたが、バスツアーの団体客とぶつかったこともあって都心以上の混雑ぶりである。前も後ろも左も右も中国語である。香港・台湾が多いのだろうか。ここは中国かと思ったものである。
夕方にバスで河口湖駅に戻った。渡船バスにもかかわらず、英語・中国語のアナウンスも流れ、運転手さんも終点の河口湖駅に付くときは英語で到着案内されていた。駅に着いて特急電車で八王子に向かってそこで乗り換えて横浜に行こうということで切符を買いに行くと、座席は既に売り切れ。駅は切符を買う人で満杯である。立ち乗車することにしたが、デッキも通路も人だらけでそこにも中国語が全面展開していた。しかし、皆さん、辛抱強く静かに乗られていた。来日している今の中国人は豊かで階層の高い人たちのためだろうか。十年余り前に妻と中国に旅行したことがあったが、バスに乗る時、ドアが開くなり行列が一気に崩壊して順番に関係なく我先にと乗り口に殺到して私も後の人に引きづりおろされそうになったり、妻に励まされて逆に前の人を引っ張ったりしてかきわけてなんとか乗り込んだことがあった。中国滞在の経験のある妻から‘譲り合いは通用しない。人を蹴落としてでもいかないと中国では生きていけない’と説法されたものであった。現在、中国大陸ではどうなのか、知らないが。
円安の力は抜群である。日本人にとって物価は高いと感じるのだが、外国人にとっては激安のようである。1ドル75円の時代では外国が激安だったことがあったが。
今年5月のゴールデンウィーク明けに奈良へ行った時、外国の人は欧米人がほとんどだった。英語やフランス語は聞こえても中国語はまったくといってよいほど耳にしなかったものである。訪れた県庁近くの老舗の蕎麦屋さん、入江写真館、新薬師寺、志賀直哉祈念館、歩く道中、奈良町に通じる商店街も欧米人で溢れていた。その時期のあと、ほぼ完全な‘コロナ明け’となって中国人(正確にはホンコン・台湾人といわれている)が多く来日したのであろうか。
‘コロナ’前ではどこもかしこも中国語の大きな声とマナーの悪さがかなり問題になったことがあった。階層が低いとされている人々の来日が多かったのであろう。現在来ている中国系の人たちは上品な感じである。大声もマナーの悪さもあまり耳にしない。
多くの世界中の人たちが互いに交流することは理解を深め愛、互いを認め合うよい機会であると思う。国と国とのつきあいも人と人とのつきあいと同様ではなかろうか。607年、遣隋使の小野妹子が「日出処の天子、書を日没処の天子に致す。恙(つつが)なきや」という有名な国書を携えて、隋の2代皇帝・煬帝と対等の立場で接した。そういう気概のある外交が今の政治にできないのか、情けない限りである。当時の東アジア情勢での立ち位置もあろうが、他国が次々と大国・隋に朝貢して服従の意を示した中で、日本の取った立場はひと際異彩を放っていたといわれる。対等であってこそ理解しあい、認め合うことができると思うのである。
今年春にあった野球の世界大会・WBCの米国との決勝戦の前、大谷翔平選手がロッカールームでチームメートに呼びかけた言葉、‘僕ら、きょう超えるために、トップになるために来たんで。きょう1日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう’。中堅にトラウト、右翼にレッズ、一塁にゴールドシュミット・・・。錚々たるメジャーの顔が居並ぶ米国チームに対して卑下することなく堂々とぶつかっていこうという大谷選手の言葉は、人と人とのかかわりの原点を教えているように私は思うのである。
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