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13.‘一心一切法 一切法一心’とは
仏典に「一心一切法 一切法一心」ということばがある。現代風にいえば、‘一心’からすべての世界は生まれ、すべての世界は‘一心’にある、ということである。では、‘一心’とは何だろうか。
仏教界での伝統的な解釈では、‘一心’とは「三界唯心(すげての世界はただ心の現れである)」や「心外無別法(心のほかに別の世界はない)」の‘心’と同じであり、その‘心’とは心理的精神的状態としているようである。欲望の火に燃えさかる精神ならば世界はすべて燃える欲望そのものの世界となり、怒りならば怒りの世界となり、やすらかなればやすらかな世界となるとのことである。‘心’のそういう解釈は一面的で、安直すぎるのではないかと私は思う。すべてはあなたの心次第ですよ、という考え方は、宗教を倫理・道徳に貶めているように感じてしまう。宗教は‘良い人’という善人を作るのが目的ではないと考える。宇宙世界の真実を悟るのが本筋のはずではなかろうか。だからこそ、語弊を恐れずに言えば、悪人といわれる人でもそのままで救われることがある。
私は、‘心’を心理的精神的状態とする狭い解釈ではなくて、エッセンス、つまり、「般若心経」という経題にある心髄ないし核心という意味の‘心’と捉えたい。では、世界の心髄とはなにか。ずばり、‘諸行無常 諸法無我’である。般若経典はそれを「空」といい、法華経は「諸法実相」といい、華厳経は「事事無碍法界縁起(じじむげほっかいえんぎ)」といっている。今風にいえば、宇宙法則ということになろうか。これに従がって「日月星辰(太陽・月・星々)」は運行し、大地は裂破して厚さ三寸を増す(大地はこっぱみじんにこわれてその大地はさらにぶ厚くなる)のである。
金剛般若波羅密多経に、「応無所住 而生其心」という文句がある。書き下せば、‘まさに住するところなくしてその心を生ず’となる。これを私はこう現代語訳する。
‘一切のものは、まさしく、あるところに固定してとどまっていることはない。これが世界の真髄であり真理である。その真理に基づいて世界が生じているのだ’。
「諸行無常 諸法無我」が‘心’イコール世界ということである。世界は、それぞれの存在にとっての世界であると同時に、それぞれの存在を超えての世界でもあることを認識すべきだと思考える。わたしの世界、あなたの世界、それぞれの人の世界、トリの世界、ヘビの世界、魚の世界、虫の世界、植物の世界・・・。それだけではなくて、わたしの世界、あなたの世界にも、さまざまな感情や観念、体調、日々の気候など内外のいろいろな状況によっていろいろな世界が現れ出る。そういう個々の世界とともに、個々を超えた宇宙一切の世界(華厳経では‘世界界’と呼んでいる)も含めて、そういう世界を仏教では‘心’という言葉で示しているのではないだろうか。曼荼羅を見たとき、つくづく思う。個々の世界が大きな世界に属し、その大きな世界が他の無数の大きな世界とともにさらに大きな世界に属し、さらに大きな世界に属するということを無数に重ねて、その無数の重層構造の中心に大日如来という宇宙光明が鎮座している。一切をひっくるめた宇宙世界を‘心’といっているのではないだろうか。このことを理解している人は仏教指導者といわれる人たちにもあまりいないようにみえる。あなたの心理的精神的状態でもってあなたの一切の世界が作られ、一切の世界はあなたの心理的精神的状態そのものである、と考えるのが一般的なようだ。この考え方では、あなたからすべての世界は生まれ、すべての世界はあなたが死ぬ時はあなたとともに生滅する、という論理になるだろう。もしそうであるならば、ある人はこう思うだろう。どうせオレ自身の世界のことであるから何してもよいのだ、他に迷惑がかかろうが世界はオレ自身のことだから気にしなくてよい、オレさまファーストだ、と。
あなたの生まれる以前から‘心’であり、あなたが死んでのちも‘心’であり、この私たち宇宙が生まれる以前から‘心であり、この宇宙がなくなって以降も‘心’である。そういう宇宙生命を‘心’ということではないだろうか。そういう宇宙生命の‘心’に直感したとき、それを仏教では‘悟り’としているのではないだろうか。ではどうやって直感するのだろうか。仏教に限らず、古からの賢者はいっているように、自分の思いを捨てて、自分まるごとをある一点に投じることである。その一点とは、例えば、祈りであり、念仏であり、坐禅であり、巡礼であり、日常の行動の一つ一つである。
道元禅師は「仏のいえになげいれて」と言う。自分と対象とが一枚になることである。禅仏教的にいえば、坐禅とは自分を忘れて坐禅という姿勢にだけをひたすら求めていくことである。念仏なら念仏だけ、祈りなら祈りだけということである。無我の行いをひたすらするなかで、大いなる宇宙生命の‘心’におのずから照らされているのだと、古の賢者は言っているのではないかと思う。
宇宙生命の‘心’は宇宙光明ともいえよう。この宇宙光明からすべてが生まれ、すべては宇宙光明のなかにある。だからこそ、華厳経は、一塵・一つの毛穴のなかに仏国土があり、広大なる大海だ、といっている。「心仏及び衆生は是三無差別なり(心と仏およい一切の生きとし生けるもの、この三つは違いなく同体だ)」のことばも、仏も私たち凡夫も心すなわち宇宙光明そのものだということである。つまり、私たちは完全無欠の宇宙光明の姿形だというのである。
しかし、大抵の人はそのことを実感として理解し難いと思う。至らない自分を見るし、いろいろな悪感情も出てくる。世の中はいざこざや争い、渦巻く欲望の嵐、不合理・不可解だらけだと思っているのがほとんどではないだろうか。
宇宙生命は多種多様である。太陽を含めて恒星も、太陽系にある惑星もみんな違っている。生物も多種多様であり、私たち人間も一人一人違っている。そういう多種多様な宇宙生命の実態を価値判断して取捨選別する私たち人間のアタマにこそ問題があるのではないだろうか。文明がすばらしいのではない。未開が劣っているのではない。勝手な価値判断こそが愚劣なのである。そういう濁りの目を捨てて、無心に見ることこそがすばらしいのである。
人間以外の生命は自然の掟に従がって生きている。人間はそういう自然の掟を超越して自然を己の意のままにしようとする。核兵器はその象徴ではないだろうか。
私たち人間はアタマがあるゆえに自己をコントロールして自然のなかの一存在たることをますます自覚せずにはいられない時代になっているのではないだろうか。
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