/
19.正法眼蔵 現成公案その6 神谷湛然 意訳
しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。
(このようにして、人がもし生身のいのちを親密に行じ悟りを証するとき、一つの生身のいのちを獲得し、一つの生身のいのちと相通じるのだ。一つの生身のいのちの働きに出会い、一つの生身のいのちの働きに親しく行ずるのだ。)
これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽(ぐうじん)と同生し同参するゆゑにしかあるなり。
(生身のいのちの場にどっぷり浸かり、生身のいのちの働きにまったく通じることによって、自分がどこまで分かっているかを実は分かっていないということに気づくのは、生身のいのちを究め尽くそうとする絶え間ない行いと同時に生じるからであり、生身のいのちを究め尽くそうとする絶え間ない行いと同時にもたらされるからだ。生身のいのちは無限かつ絶え間なく転変しているがゆえに、これが生身のいのちだとつかまえることはできない。つかまえたらその時点で生身のいのちは死に絶えてしまう。無限なる生身のいのちを生身のいのちのままで生身のいのちを行じるのみである。)
得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも見成にあらず。見成これ何必(かひつ)なり。
(生身のいのちを会得するところには、かならず自分の知るところ、感知できるものかと思ってはならない。生身のいのちへ究め尽くそうとして現前するありようは、即すみやかに現れ出るとしても、自分の感覚・意識を越えたありようであるゆえに、かならずしも自分の感知するところとはならないのだ。生身のいのちを頭でもってつかまえようとすることのできないありようであるがゆえに、このいのちの見成は‘何必’、すなわち100%‘何’としか言いようがないのだ。私たちの思いで規定できる代物では全くないということである。)
麻谷山宝徹(まよくざんほうてつ)禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
(麻谷山宝徹禅師が扇子でバタバタと煽いでいると、そこへある僧が来て尋ねた。)
「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。」
(「風の本質はどこにも存在し、あらゆるところに行き渡っているはずです。それなのに、なぜ和尚はわざわざ扇子を使って煽いでおられるのか。」)
師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず。」と。
(禅師は言った。「おまえはただ、風の本質はいつでおどこでも常にあるという言葉を知っているが、風の本質がすでにあらゆるところに行き渡っている本当の道理を知らないな。」と。)
僧いはく、「いかならんかこれ無処不周底の道理。」。ときに師、あふぎをつかふのみなり。僧 礼拝す。
(僧は問いた。「それでは、風の本質がすべてに行き渡っているという道理とはいかなるか。」。その時、禅師は、何も言わずに扇子をバタバタと煽ぐだけであった。その様子を見た僧は、疑念がすっかり抜け落ちて、禅師に礼拝して感謝の意を示したのだった。)
仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。
(生身のいのちがはっきりと疑いなくあるというありよう、そのありようがいかなるものかを、師匠から弟子へと正しく伝えられてきた営みのありようは、この、仇谷山禅師と僧とのやりとりのようなものである。風の本質はいつでもどこでも常にあるから、煽ぐ必要はないはずだ、扇子を使わなくとも風はあるあるだ、というのは、風の本質が常にあることの本当の道理も知らず、また風の本質とは何たるかをも本当にわかっていないのだ。)
風性は常住なるがゆゑに、仏家(ぶっけ)の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
(風の本質はいつでもどこでも常にあるがゆえに、生身のいのちを実践する人たちの風は、大地を黄金に現前せしめ、大河を濃密なミルクにしてこのうえもないおいしい醍醐味に爛熟させるのだ。生身のいのちの実践者は、生身のいのちという‘風’を‘風’として現前させる行いによって、大地は大地として、感覚・意識をはるかに越えた大いなる大地のありようを現前させ、大河を大河として、感覚・意識をはるかに越えた、大いなる大河のありようが現れ出させられるのだ。)
(現成公案 おわり)
コメント