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23.証道歌その1 神谷湛然 意訳
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‘さとりのうた’ 永嘉大師(ようかだいし)作
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<証道歌 1>
君見ずや、絶學無爲の閑道人(かんどうにん)。
妄想を除かず、眞を求めず、無明の實性、卽佛性、幻化(げんげ)の空身、卽法身。
(意訳)
君は出会わないでいられようか、理屈や観念をはるかに超越し、一切の思い量り・かからいを絶した、まさしく生身のいのちそのものの人を。
妄想を除くこともせず、真理を求めることもしない。惑乱して暗闇に溺れるこの身心は、そのままで生身のいのちの身心となり、幻のような、実体としてないこの空の身が、そのままで生身のいのちという宇宙生命となる。
<証道歌 2>
法身覺了すれば無一物(むいちもつ)、本源自性天眞佛。
五陰の浮雲は空去來(くうこらい)、三毒の水泡は虛出沒。
(意訳)
生身のいのちを生身のいのちとして生身のいのちになったとき、これという凝り固まったものは一切なにもなく、ただ転変して自由自在なる生身のいのちばかりであることを。もとより生まれつきに生身のいのちそのものだ。この世界と身心は浮き雲のように実体なく現象として転変し、貪り・怒り・無知の三毒の煩悩が水の泡のように湧き出す。
<証道歌 3>
實相を證すれば人法無し。刹那に滅却す、阿鼻(あび)の業(ごう)。
若(も)し妄語を將(もっ)て衆生を誑(まどは)さば、自から拔舌(ばつぜつ)を招くこと塵沙劫(じんしゃごう)ならん。
(意訳)
生身のいのちが現前すれば、観念や概念・きまり・慣習・風習・秩序など、人間の頭によるつくりごと一切が実体としてなく、きまりきったものがないことが露わになる。生身のいのちの現前は、そういうつくりごとによって生まれる地獄のような苦悩を一瞬にして消滅させる。もし、間違ったことを言って人々を惑わすようならば、自分の方から進んで絶え間なく地獄の閻魔大王に舌を抜かれ続けられるだろう。
<証道歌 4>
頓(とん)に如來禪を覺了すれば、六度萬行體中(たいちゅう)に圓(まどか)なり。
夢裡明明として六趣有り、覺さめて後(のち)空空として大千も無し。
(意訳)
一気に、生身のいのちを生身のいのちとして現前すれば、あらゆる働きと行いに生身のいのちが充満して欠けることがなくなる。
夢幻のこの世界には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界があって、私たちはこの六道をぐるぐる回って生き死にしていることがはっきり見えてくる。生身のいのちが現前すれば、このすべての世界が実体として全くなく、現象ばかりであることが分かる。
<証道歌 5>
罪福も無く損益も無し、寂滅性中問覓(もんみゃく)すること莫(な)かれ。
比來(ひらい)の塵鏡未だ曾(かつ)て磨さず、今日分明(ふんみょう)に須く剖析(ほうしゃく)すべし。
(意訳)
この空の相から見れば、罪とか福とか、損したとか得したとか、という相対立する分別の実体もない。すべてが生身のいのちの真っ只中にあり、これを疑ってはならない。近頃、塵の積もった鏡を全くきれいに磨こうともしない輩がいる。今やはっきりした。そんな鏡なんぞ、必ず断ち割ってしまえということを。
<証道歌 6>
誰か無念、誰か無生、若(も)し實に無生ならば不生も無し。
機關木人(ぼくじん)を喚取して問へ、佛を求め功(こう)を施さば早晩(いつか)成ぜん。
(意訳)
無念無生なるは誰なのか(そえは、如来という、生身のいのちを現前した人だ)。もし、実に無生ならば、生の対立概念である不生も無不生である。すべてが無一物なる無だからだ。木人形を呼んで次のことを聞くがよい。生身のいのちたる真理を求め、善行を積めば悟れるのかと。
<証證道歌 7>
四大(しだい)を放って把捉すること莫かれ、寂滅性中隨がって飮啄(おんたく)せよ。
諸行は無常にして一切空なり、卽ち是れ如来の大圓覺。
(意訳)
あらゆるものをこれだと決めつけて理解しないで手放しすることだ。すべてが生身のいのちの真っ只中にあって、そのいのちに従がって生きることだ。すべてが転変していて、変わらないというものがなく、一切が空、すなわち一切が実体なく現象ばかりだ。すなわち、これが生身のいのちに目覚めた人の完全完璧たる悟りだ。
<証證道歌 8>
決定(けつじょう)の説は眞僧を表す、人あり肯がはずんば情に任せて懲せよ。
直に根源を截るは佛の印する所、葉を摘み枝を尋ぬるは我能はず。
(意訳)
生身のいのちへ一切を投げ入れよという説く人は真の求道者である。どうしても納得しない人がいたら、思い切りぶん殴ってやれ。単刀直入に迷いの根本を断ち切るのは、生身のいのちの現前たる覚者のなすところである。迷いの根源を断ち切らないで、迷いの枝葉ばかりを取り除いてもどうしようもない。
<証證道歌 9>
摩尼珠(まにじゅ)人識(し)らず、如來藏裡(ぞうり)に親しく収得す。
六般(ろっぱん)の神用(しんよう)空不空、一顆の円光色非色。
(意訳)
マニ珠という宝石のごとくの自己の本来の面目を人は知らない。しかし、生身のいのちの現前たる覚者はそのマニ珠をふところに親しく抱いている。本来の面目たる生身のいのちと一体となっているのだ。
すべての感覚器管・意識の作用とそれによって作り出される世界は‘色即是空 空即是色’という活発発地のいきいきとしたありようであり、このありようは空不空ともいう。生身のいのちは、マニ珠のごとく、欠けることのない満天の輝きを放ち、その光は色非色としか言いようのないいきいきとした自由自在の光なのだ。
<証道歌 10>
五眼(ごげん)を淨し五力(ごりき)を得、唯だ證して乃ち知る測(はか)るべきこと難し。
鏡裡(きょうり)に形を看(み)ること難からず、
水中に月を捉ふ爭(いかで)か拈得せん。
(意訳)
生身のいのちは、肉眼・天眼・慧眼・法眼・佛眼の五つの眼を持つとされる求道者の眼をまっさらにし、騙したり怠けたり怒ったり恨みつらみをしたりの悪しき感情を克服する力を与えて身につけさせる。生身のいのちと一枚になれば、ものごとの真相を頭でつかまえることが難しいことが、ただただ分かるだけである。鏡に映る姿を見るのは簡単だが、水に映った月を捕まえることはどうしてできようか。その月は影でしかないのだから。
<証道歌 11>
常に獨り行き常に獨り歩す、達者同じく遊ぶ涅槃の路。
調べ古(ふ)り神淸うして風自ら高し、貌(かたち)顇(かじ)け骨剛(かとう)して人顧(かえりみ)ず。
(意訳)
生身のいのちの現前は自分自身のことであるから、いつも独立独歩で究め尽くすしかない。生身のいのちと一枚になった人はみな同じように、生身のいのちを自由自在に働かせる。ことばは古めかしいが、生身のいのちばかりなので、心は計らいなきがゆえに清く、立ち振る舞いの風情はひとりでに高貴な雰囲気を漂わせている。だが、見た目は、容貌はやつれて骨がごつごつとして貧相に見えるためか、人は誰もその達者を振り返って見ようともしない。
<証道歌 12>
窮釋子(ぐうしゃくし)口に貧と稱(しょう)す、實に是れ身貧にして道貧ならず。
貧なれば則ち常に縷褐(るかつ)を被す、道あれば心に無價(むげ)の珍を藏(おさ)む。
(意訳)
貧困い窮していた釈尊の弟子たちは、口々に貧なるべしと唱えている。まさに身なりは貧しいが、生身のいのちは貧弱ではない。貧しくて、身にいつもボロ着をまとっていても、生身のいのちと一枚なれば、心には生身のいのちという、この上もない大いなる宝を抱いているのだ。
<証道歌 13>
無價の珍は用ふれども盡くること無し、物を利し縁に應じて終に惜しまず。
三身四智體中に圓かなり、八解六通心地に印す。
(意訳)
生身のいのちという、この上もない大いなる宝はいくら用いても尽きることのない無限の働きがある。あらゆるものごとを自由自在に働かせ、縁や状況に応じて惜しむことなく無限い現前する。生身のいのちのありよう(法身・報身・応身の三つがあるという考えがある)や働き(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の四つの智慧が仏にあるという考えがあるが、今風にいえば、いのちの働き)は生身のいのちそのものにあって欠けることがない。さまざまな煩悩から解脱する力もいろいろな神通力も生身のいのちにそなわっている。
<証道歌 14>
上士は一決して一切了ず、中下は多聞(たもん)なれども多く信ぜず。
但だ自から懷中に垢衣(くえ)を解く、誰か能く外に向かって精進(しょうじん)に誇らん。
(意訳)
上根のすぐれた人はすぐにすべてを了解する。中下根の並みかそれ以下の人はたくさんの話を聞くが、なかなか納得せず、ほとんど信じることができない。ただ、自分自身のふところのアカにまみれた衣という疑念を脱げばよい。誰が人に向かって生身のいのちへの倦むことなき行を自慢してひけらかすことがあろうか。生身のいのちへの参究は、自分自身の不十分さを晒され続けられ、瞬瞬に新たなるを露曰されられるばかりだからだ。人に対して自慢してひけらかせるしろものではない。
<証道歌 15>
他の謗するに從(まか)す、他の非するに任す、火を把(と)って天を燒くに徒(いたずら)に自ら疲る。
我聞いて恰(あたか)も甘露を飮むが如し、銷融(しょうゆう)して頓に不思議に入る。
(意訳)
人から誹ったりけなしたりされても、その誹謗を言わせておけばよい。そういう人の誹謗は、火で天を焼くようなもので、人は自然と徒労に終わることに気づくだろう。私にはその誹謗を聞くと、甘露の水(極上の酒)を飲むようなものだ。そんな誹謗なんぞすぐに消え去って、不思議ときれいさっぱりとなくなる。
<証道歌 16>
惡言は是れ功徳なりと觀)かん)ずれば、此れ卽ち吾が善知識と成せん。
謗に因(よ)って怨(おん)親を起こさざれば、何ぞ無生慈忍の力を表せん。
(意訳)
悪口も叱咤激励と見れば、私にとってすぐれた先生となる。誹謗中傷・恨みを持つ人にも親しくなろうとしないならば、どうして、生身のいのちの発現たる慈悲と忍耐の力を発揮しえようか。
<証道歌 17>
宗も亦通じ説も亦通ず、定慧(じょうえ)圓明にして空に滯らず。
但だ吾れ今獨り達了するのみに非ず、恆沙(ごうしゃ)の諸佛體皆同じ。
(意訳)
生身のいのちと通じ、生身のいのちによって説法は自由自在に通用する。生身のいのちによって瞑想と知恵は欠けることなく完璧ではっきりしていて曖昧なところがなく、空の観念に滞ることなく、空不空という無一物の生身のいのちに遊ぶ。ただ、私一人のみが生身のいのちを悟るのではなくて、無量無数の生身のいのちと同体である。
<証道歌 18>
獅子吼(ししく)無畏の説、
百獸ひ之れを聞いて皆腦裂す。
香象(こうぞう)奔破するも威を失却す、天龍寂(しず)かに聽いて欣悅(ごんえつ)を生ず。
(意訳)
百獣の王たるライオンの吠え声のような何の怖れもない、生身のいのちの説法、あらゆるものはこの説法を聞いて凝り固まった頭をかち割る。象が暴れて踏みつぶそうとしても、生身のいのちの説法の前には象という大きな魔物さえも力を失っておとなしくなる。天の龍たる生身のいのちはこの説法をしずかに聞いて喜ぶ。
<証道歌 19>
江海に遊び山川を渉り、師を尋ね道を訪(とむら)ふて參禪を爲す。
曹谿(そうけい)の路を認得(にんとく)してより、生死相關(あいあづか)らざることを了知す。
(意訳)
大河や海のほろりを歩き回り、山川を越えて師匠を求て尋ね歩き、生身のいのちを求め歩いて坐禅に参じて来た。
しかし、六祖大鑑慧能禅師の道を了解して得てからは、生にも死にも実体がなく、無生無不生・無死(滅)無不死(不滅)たる本来無一物という生身のいのちばかりであることを了解した。
<証道歌 20>
行も亦禪、坐も亦禪、語默動靜體安然。
縱(たと)ひ鋒(ほう)刀に遇ふとも常に坦坦(たんたん)、假饒(たとひ)毒藥も亦間間(かんかん)。
(意訳)
歩くのも禅、坐るのも禅。話すときも黙るときも動いているときも静かにしているときも、寝ても覚めても四六時中、生身のいのちばかりに安らいでいる。たとえ、刀の切り先を突きつけられても、生身のいのちばかりに安らいでいるがゆえに、心を乱すことなく冷静に坦坦として対処できる。また、たとえ毒薬に当たっても、生身のいのちばかりに安らいでいるがゆえに、心乱すことなく冷静に対応して被害が最小限になるよう対処する余裕がある。
(補足)
おもしろい話がある。明治時代に活躍した日本の禅僧である西有穆山(にしありぼくざん)は、維新前夜のある日、家に侍たちの暴徒に押し入れられて金銭を要求されて刀先を突きつけられた時、‘ちょっと待ってくれ。その前に一杯飲ましてくれないか。’と言って奥から徳利とぐいのみを持って来て、あぐらをかいてチビリチビリとしはじめた。禅師は侍たちの顔に物欲しそうな表情が浮かんでいるのを見て、‘あんたたちも一杯どう?。’と言うと、侍たちは刀をさやにおさめて一緒にうまそうに飲み始めた。そのうちに酔いが回って顔が赤らんでくると、侍の棟梁が‘ええいっ、やる気が失せたわ、ひけっ!’と叫んで侍たちは退散して、禅師には何事もなかったという。
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