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24.証道歌その2 神谷湛然 意訳
<証道歌 21>
我師然燈佛(ねんとうぶつ)に見(まみ)ゆることを得て、多劫(たごう)曾(かつ)て忍辱仙(にんにくせん)と爲る。
幾囘(いくたび)か生じ幾囘か死す、生死悠々として定止(じょうし)無し。
(意訳)
釈尊は然灯仏に出会ってから永遠としか言いようのない長い間、忍耐強く生身のいのちを実践してきた。その実践は、自由自在に無限に何回も数えることのできないほど転変する生身のいのちの現前であり、生身のいのちは永遠に流れて滞こおることなく転変していきいきと働いている。
<証道歌 22>
頓に無生を悟了してより、諸の榮辱に於(おい)て何ぞ憂喜せむ。
深山に入り蘭若(らんにゃ)に住す、岑崟(しんきん)幽邃(ゆうすい)たり長松の下。
(意訳)
一気に無一物たる生身のいのちと一枚になってよりこのかた、褒められたりけなされたり、良いときもあれば悪いときもあるいといろな人生の浮き沈みに一喜一憂するむなしさを思うようになった。今は、‘晴れてよし曇りてよし富士の山’である。
奥深い山に入ってそこにある寺に住んでいる。険しい崖の上に物静かに生えている樹齢幾百年か知らぬ古い大きな松のもとにある。生身のいのちは世間世俗からは推し量ることのできないありようである。生身のいのちは無一物としていつまでも悠然とそびえ立っている。
<証道歌 23>
優遊(ゆうゆう)として靜坐す野僧が家、闃寂(げきせき)たる安居(あんご)實に瀟洒(しょうしゃ)。
覺すれば卽ち了じて功を施さず、一切有爲(うい)の法と同じからず。
(意訳)
自分(永嘉大師)はこの寺でゆったりと静かに坐禅している。しんしんと物静かな生活はまことにさっぱりして清い。生身のいのちと一枚になれば、善行を積む必要がないことがはっきりわかった。生身のいのちは一切のつくりごとと同じではないのだ。
<証道歌 24>
住相の布施は生天の福、
猶(な)ほ箭(や)を仰(あお)いで虛空を射るが如し。
勢力盡きぬれば箭還って墜(お)つ、
來生の不如意を招き得たり。
(意訳)
布施にこだわれば、それは世間的な幸福を願うのと変わらない。矢を上に向かって天空を射るようなもので、無意味な行為である。矢の勢いが途中で尽きてしまって矢は落ちてしまうように、善行の力は、あの世に届く前に尽きて、あの世で思い通りにならなくてあくせくすること間違いなしである。
<証道歌 25>
爭(いかで)か似かん無爲實相の門、一超直入如來地なるに。
但だ本を得て末を愁ふること莫かれ、淨瑠璃に寶月(ほうがつ)を含むが如し。
(意訳)
思い量りやはからいを絶した、つくりごとのない生身のいのちに勝るものはない。思い・はからいを超越して、一気に単刀直入に生身のいのちと一枚になるがゆえに。ただ、本質を得ながら、どうでもよい末節を気にすることをするな。誰もが、きれいな瑠璃の入れ物という身に生身のいのちという宝の玉を持っているのだから。
<証道歌 26>
我今此如意珠を解(げ)す、自利利他終に歇(つき)ず。
江月照し松風吹く、永夜の淸宵(せいしょう)何の所爲ぞ。
(意訳)
私は今この、意のままに自由自在に働く生身のいのちという宝珠を了解した。それが自分の利益になるのか他人の利益になるとか議論しても無意味だ。自他ともに無だからだ。江上の月は煌々と照り、松林の間を風が吹き抜けている。この、長い夜の清らかな宵の風情は一体何のしわざか。はからいすることなく、ありのままに生身のいのちが働いていることを。
<証道歌 27>
佛性の戒珠心地に印す、霧露雲霞體上の衣。
降龍の鉢(はつ)、解虎の錫(しゃく)、兩鈷(りょうこ)の金環鳴って歴歴。
(意訳)
生身のいのちには不殺生戒などの十戒も元々備わっている。なぜなら、殺すべきもの・盗むべきもの・淫らすべきものなどがもともとなく、すべてが無なるゆえに無なる戒を持つのだ。霧とか露とか雲とか霞とかを衣服とするように、戒を生身のいのちは自然と持っている。龍のような大いなる生身のいのちを頂戴する托鉢の鉢を持ち、虎のような怒りを追い払う錫杖をつく。手に持つ両鈷の金環はいつでも明明と鳴り響いて煩悩なる邪気を退散させる。
<証道歌 28>
是れ形を標して虛しく事持するにあらず、如來の寶杖親しく蹤跡(しょうせき)す。
眞をも求めず妄をも斷ぜず、二法空にして無相なることを了知す。
(意訳)
それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない。
生身のいのちという宝杖をそのままに受け継いでいるのだ。
真理を求めず、妄想も断たない。真理も妄も空であって、実体がなく、すべてが無の相であって、なにが真なのかなにが妄なのか、きまったものはないのを生身のいのちは了解している。
<証道歌 29>
無相は空なく不空もなし、
卽ち是れ如來の眞實相。
心鏡明らかに鑑み碍(さわ)り無し、廓然として瑩徹(けいてっ)して沙界に周(あまね)し。
(意訳) 無相とは、無空む不空ということであり、きまりきったものはまったくない、絶えず転変し自由自在なる活発発地たるありようであり、これが生身のいのちの本当のすがたである。生身のいのちという鏡には塵一つなくきれいで、映る姿をぼやけさせることなく見ることができる。からりとはっきり、生身のいのちの光が世界に行き渡っている。
<証道歌 30>
萬象森羅影中(かげなか)に現ず、一顆(いっか)の圓光内外に非ず。
豁達(かったつ)の空は因果を撥(はら)う、莽莽蕩蕩(もうもうとうとう)として殃過(おうか)を招く。
(意訳)
森羅万象は、生身のいのちの発現である。生身のいのちという一つの欠けることなき光は内外問わず、この世界まるごと光なのだ。
あけっぴろげの無頓着な空観は因果を追っ払い、まるっきり何もない、あたかも真空ばかりが漠々と広がっているような思いに陥って大変な禍いを招いてしまう。極端な空相観は、因果律を否定して真空だけが漠々と広がっているような観念にさせて、何してもよいのだとして思いのままに悪行をなすような無節操な行為に走らせるおそがある。もしくは、虚無主義にさせて生命否定となって死ぬことのみを目標とする風潮を生みやすい。暗い洞窟の中で何も飲食せずに坐禅したまま朽ち果てることを最高最上とする悪しき‘即身成仏’もその一つの現れだといえる。
<証道歌 31>
有を棄て空に著す病亦然り、還って溺を避けて火に投ずるが如し。
妄心を捨て眞理を取る、取捨の心巧僞(ぎょうぎ)と成る。
(意訳)
有を捨てて空に執着する禅病もまた同様に禍をもたらす。まさに、溺れるのを怖れて水を避けて火に飛び込むようなものだ。
迷いの妄心を捨てて真理を取るという、その取捨の心は巧妙に嘘をついて偽りをなす。
<証道歌 32>
學人了せずして修行を用ふ、眞に賊を認めて將(もっ)て子とすることを成す。
法財を損し功徳を滅することは、斯の心意識に由らずと云(い)ふこと莫し。
是を以て禪門は心を了卻す、頓に無生に入るは知見の力なり。
(意訳)
生身のいのちを参究参学する人は分からないままに修行するのは、まことに、邪悪なる賊と知りながらその邪悪を子とするようなものだ。生身のいのちという宝を傷つけ、生身のいのちの働きをなくしてしまうのは、このいい加減な態度によるのだ。
このことのゆえに、禅に参じるものは生身のいのちを了解して臨む。一気に無生なる無一物、すなわち生身のいのちと一枚になるのは、魔訶般若という大いなる智慧の力によるものだ。大いなる智慧とは、はからいなく、そのものをそのものとしてそのものすることである。
<証道歌 33>
大丈夫慧劍を秉(と)る、般若の鋒金剛の焔(ほのお)。
但だ能く外道の心を摧(くだ)くのみに非ず、早く曾(かつ)て天魔の膽を落卻す。
(意訳)
生身のいのちと一枚の人は邪悪を切り裂く智恵の剣を持つ。その智恵の剣の矛先は徹底的に焼き尽くす炎のようだ。ただ、生身のいのちに背く人たちの心を砕いて回心させるだけではなく、いち早く、参究参学の修行を邪魔する天魔という煩悩を降伏させる。<証道歌 34>
法雷を震ひ法鼓を撃ち、慈雲を布(し)き甘露を洒(そそ)ぐ。
龍象の蹴蹋潤ひ無邊(むへん)、三乘五性皆醒悟す。
(意訳)
とどろく雷のごとく、地面から鳴り響く太鼓のごとき、生身のいのちの説法は、慈悲の雲を天空に敷いて甘露の雨を地にそそぐ。いつでもどこでも生身のいのちは説法しているのだ。
巨象同士が蹴り合うように、学人同士が切磋琢磨する修行は無限の豊かな潤いを生み出す。そういう互いの練磨によって、悟れないと思われる人でさえもどんな人も皆、生身のいのちに出会って一枚になれるのだ。
<証道歌 35>
雪山の肥膩(ひに)更に雜(ま)じわり無し、
純に醍醐を出す我常に納む。
一性圓(まどか)に一切の性に通じ、一法徧あまねく一切の法を含む。
(意訳)
ヒマラヤに生えるという肥膩草は他の草とまじわることがない。その草を牛が食べれ産み出す純粋な醍醐味の乳を釋尊も受けたといわれる。その醍醐の乳という生身のいのちを私は常にふところにおさめている。
ひとつのものの本質たる生身のいのちは欠けることなく完全完璧にして、一切のすべてのものの本質に通じている。生身のいのちとして現前するひとつのありようは、一切のあらゆるありようでもある。一心一切法であり、生身のいのちならざるものはないのだ。
<証道歌 36>
一月普(あまね)く一切の水に現じ、一切の水月一月に攝(せっ)す。
諸佛の法身我性に入り、我性還(かえつ)て如來と合す。
(意訳)
月ひとつがすべての水にやどり、すべての水に映る月影は天空のひとつの月と一体となって現われている。宇宙いっぱいに行き渡る生身のいのちは私の本質ともなり、そしてまた、私の本質は一切の生身のいのちと一枚となる。
<証道歌 37>
一地具足す一切地、色に非ず心に非ず行業(ぎょうごう)に非ず。
彈指圓成す八萬の門、刹那に滅卻す三祇劫(さんぎごう)。
(意訳)
今ここに生身のいのちすれば、そのまま一切の場が生身のいのちとなる。そのいのちは目に見えるものでもなく、頭でわかるものでもなく、いろいろな行いによる報いでもない。
指をはじくがごとき一瞬にして、真理を説くあらゆる教えが生身のいのちとして欠けることなく完璧に現前して、永遠ともいえる長い間の苦悩や罪がまたたくまに消え去る。
<証道歌 38>
一切の數句は數句に非ず、吾が靈覺と何ぞ交渉(きょうしょう)せん。
毀るべからず讚むべからず、體虛空の若く涯岸(がいがん)なし。
(意訳)
どんな言葉も本当のことを言い当てていない。月を指し示す指のようなものだ。思い量り・はからいを絶した私ですらも窺い知れないありようを言葉でどう言えばよいのだろうか。生身のいのちは、毀誉褒貶を越えて虚空のように自由自在であり、果てしがない。
<証道歌 39>
當處を離れず常に湛然、覓(もと)むれば卽ち知る君が見る可(べか)らざることを。
取ることを得ず、捨つることを得ず、不可得の中只麼(しも)に得たり。
(意訳)
今ここを離れず、常にそこにどっしりと落ち着いている。何かを求めるならば、君は今ここを見失うことを知るだろう。取り上げたり捨てたりできない、すなわち取捨分別を絶した不可得という無一物のうちに、今ここを得るのだ。思慮分別・はからいを捨てて今ここを実践することが生身のいのちの現前である。食べるときは食べるのみ、歩くときは歩くのみ、掃くときは掃くのみ、草取りは草取りのみ。これが坐禅は坐禅なり、の実践である。
<証道歌 40>
默の時説、説の時默、大施門(だいせもん)開いて壅塞(ようそく)なし。
人有り我に何の宗をか解すと問はば、報じて道(い)はん摩訶般若の力と。
(意訳)
文殊菩薩のように沈黙がそのまま説法となることがあり、説法が沈黙となることがある。それが生身のいのちの説法であり、その生身のいのちの門戸は塞ぐところなく無限に大きく開いている。
ある人が私にどんな宗旨を了解するのかと聞かれば、私はこう答えよう。大いなる智恵という生身のいのちの力だと。
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