/ 69.杉本五郎の『大義』に思う
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「汝、我を見んと要せば、尊皇に生きよ、我は尊皇精神のある処常に在り。尊皇の有る処、君常に在り、忠魂永久に皇基を護らん。」
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戦時中に‘軍神’と崇められた杉本五郎陸軍中佐の遺書集である『大義』の初めにある言葉である。現代語に意訳すれば次のようになろうか。
‘そなたよ、真の自分を見ようとするならば、天皇を敬愛し尊ぶ心に生きよ。真の自分は、天皇を敬愛し尊ぶ精神に常にいつも存在する。天皇を敬愛し尊ぶ心のあるところに、真のきみは常にいつも存在する。天皇に忠実なる心底からのまごころをもって永久永遠に皇室の本体(すなわち、天皇)を護る決意だ。’
私は、この『大義』は現在でも生きていると見ている。それも日本だけでなく、世界のあちこちで展開されていると思うのだ。この‘尊皇’の代わりに、尊仏とか尊神とかだけでなく、尊何某教祖、尊誰々ないし尊何々、尊○○国、尊××主義など当てはめることができるのではないだろうか。会社とか団体とか組織にも形を変えた‘忠君愛国’があるのではないだろうか。
自分をなくして、あるものに全身心を投じていく、この投じていく対象者ないし対象物が永遠不変の確固たる実体としているありさまを見るのである。果たして、誤謬なき実体なるものはかってあったのだろうか。
般若経典は、仏や涅槃すらも幻であり夢であると説く。すべてが実体として存在するものはなく、一切空という。‘尊○△’というところの‘○△’なるものは夢幻の如き空に過ぎないということだ。私が修証義の意訳で、「宇宙真実光明のありように身心を投げ入れる」と書いたところがあるが、その「宇宙真実光明」とは、一刻も止まない万物転変の一切空のことをいっている。そしてその空なる観念も否定していくダイナミックな生命のありようを体得しなさいと釈尊だけでなく、すべての真実者が諭しているのではないかと私は思う。
中国臨済宗の開祖といわれる臨済義玄は「殺仏殺祖」という公案を残している。仏を殺し、祖師たちを殺して初めて解脱(悟り)を得ることができる、という意味で言っている。つまり、偶像なるものを壊してまっさらな目になれ、ということである。もっとわかりやすく言えば、頭をやわらかくして物ごとを素直い見なさいということだ。
戦時中、高徳といわれた仏教者たちが杉本の『大義』を礼賛して‘殺尊皇’できなかったことに、仏とは何なのかがはっきりしていなかった弱さを見ると同時に、そう言う自分はどうなのか、常に自己点検が問われていると思う。
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