76.「渓声山色」ということ  神谷湛然 記

/  76.「渓声山色」ということ

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 峰(みね)の色 渓(たに)の響きも みなながら
       わが釈迦牟尼(しゃかむに)の 声と姿と
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 道元禅師の和歌である。これは、11世紀後半に活躍した中国・宋代の政治家にして文筆家・書家・画家である蘇東坡(そとうば)の詩にある、「溪声(けいせい)便(すなわ)ち是(こ)れ広長舌(こうちょうぜつ)、山色豈(さんしょくほう)清浄身(しょうじょうしん)に非(あら)ざらんや」(原漢文)を受けて詠んだものである。
 私は、この歌を自然讃美歌ととらえて環境主義論に貶めている人たちがいるので、ここで道元禅師や蘇東坡の言いたかったことは何だったのか、はっきりしておきたいと思う。
 仏教では、どんな経典であれ、「諸行無常 諸法無我」という万物流転は一貫している。この万物流転という刹那生滅が「わが釈迦牟尼の声と姿」だと指摘しておきたいと思う。
 穏やかな自然だけでなく、台風や洪水、地震、土砂崩れ、日照り旱魃、ひいては遠い未来には巨大化した太陽に地球が飲み込まれるであろうこと、太陽系の最後を‘飾る’であろう太陽爆発も、「わが釈迦牟尼の声と姿」であることを言いたいと思う。
 身近な日常をみるならば、飲み食いという喫茶喫飯、家事や掃除、仕事、売り買いの経済活動も「わが釈迦牟尼の声と姿」である。
 では、「わが釈迦牟尼の声と姿」ではないのは何なのか。私は、それは固定観念だと言いたい。
 2011年の東日本大震災の時、甚大な放射能汚染をもたらした福島原子力発電所の事故がおこった。その時、東京電力だけでなく、多くの学者や政治家などが‘想定外’と驚愕しながら言っていた。「わが釈迦牟尼の声と姿」を聞かず、自然を甘く見て、‘絶対安全’神話に固執したツケではないだろうか。
 果てしなく広い宇宙だけでなく、わが地球でさえもまだまだ未知のことが多いと識者はいう。私たちの体についても然りである。効率と利便性だけを求めて自然と生命に対する謙虚さを忘れてはいないだろうか。
 「わが釈迦牟尼の声と姿」を聞けた時、少しなりとも人類の未来は明るいかもしれない。真実はアタマの中にあるのではなく、アタマの外にあることを心しておきたいと思う。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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