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2.「如是」の使われ方
先ほど挙げた「宝鏡三昧」は如是について、銀椀と雪、明月と鷺は混然一体のようにみえるが、それでも、銀椀は銀椀であり雪は雪であり、明月は明月であり鷺は鷺であると説いている。しかれども、銀椀という概念、雪という言葉、明月という観念、鷺という規定に執らわれてはならないという。いろいろと詮索すればするほど蟻地獄に陥り、かといってまったく無思慮無分別になってもいけないと戒めている。生の銀椀、生の雪、生の明月、生の鷺は、無数の大小さまざまな炎で燃え盛る大火事のごとく、捕まえることも触ることもできないいきいきとしたダイナミックな実体だと喝破している。また、そのありようは、「夜半正明 天暁不露」というように、色即是空 空即是色を言い換えていっている。西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」である。生命のナマナマしい動的なさまをみなさいといっている。中国唐代の禅僧、臨済義玄は「活發發地」と喝した。ちなみに、臨済は、‘仏に逢うては仏を殺し祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん:身内や親族)に逢うては親眷を殺して、はじめて解脱を得ん’という有名な「殺仏殺祖」の言葉を残している。概念・しがらみ・観念・通年・思い込み・色メガネ・独りよがりから離れて、ナマナマしいそのものに出会いなさいというのである。「如是」はかくもまっさらな清浄な眼で自分を世界を見るということだというのである。
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