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21.他力について
「絶対他力」という文言が親鸞を開祖とする浄土真宗でよくもちいられている。念仏は救ってくださいというお願いではなくて、‘地獄に落ちるほかない悪人を阿弥陀仏あなた様にすべて委ねます、それでも地獄に落ちるならそれでも構いません’ということである。何回念仏したとかいかに思いをこめて念仏したとかではなくて、すべてを弥陀に任せ切る心が問われているということである。この考え方は、キリスト教の原罪思想とよく似ていると思う。罪人(つみびと)でしかない人間の原罪がイエスの十字架上の死によって贖われ、イエスの神の子としての復活によって神の御国が実現したとされる。絶対神の子としてのイエスに全身全霊を捧げることによって救われるというのがキリスト教である。生贄としてのイエスに感謝し、不退転の本願を立てられた弥陀に感謝してすべてを任せ切る。親鸞が念仏を報恩感謝の念仏としたのはそういうことであろう。しかし、時宗の開祖とされる一遍からすればまだ不徹底だとされる。一遍は、念仏は念仏であってそれ以上でもそれ以下でもないという。報恩感謝という修飾語もない。その考え方は道元の只管打坐とまったく同じである。念仏という行為に純化していく行いは坐禅は坐禅なりと坐禅を純化していくのと同じ論理である。キリスト教のなかでも、祈りを祈りとして純化していく考え方が生まれた。それがプロテスタントであろう。
浄土宗西山派の祖といわれる証空(しょうくう、法然の弟子)は「白木の念仏」を説いた。生きたこの身のままでなんのいろどりをつけることなく純粋に念仏をすることだというのである。これは一遍の念仏と同じである。絶対他力といういろどりをつけることもなく、念仏を念仏として念仏していくのみである。自力とか他力とかにこだわっているようでは私から言わせればまだまだ未熟だと言わざるをえないのである。
「宗趣を立するによって宗趣わかる、すなわちこれ規クなり。宗通じ趣きわまるも真常流注、外寂に内動くは」(宝鏡三昧)暴れ馬をつないでいたりちょこまか動き回る鼠がうつ伏せになって静かにしているようなものである、と中国の禅僧、洞山(とうざん)は言った。○○宗とか××教とかにこだわっているようではなかなか真実には遠いといわざるをえない。浄土真宗だから最高だとか曹洞は臨済より劣るとか無量儒教が最高だとか法華経こそ諸王の王だとかいうのはもうやめたほうがよいと私は思う。字句に囚われた者がよくいう言い方である。宗教人として徹底して参究していくこそが肝要のはずである。そこには到達すべき地点が共に同じであることに気づくはずである。そのとき、宗派を超えて互いに携えることができるであろう。そこには他に対する悪口的批判はなく高見に向けて発展していこうとする働きが出てくるはずである。日蓮は激しい他派批判したことでよく知られているが、各宗派の陥っている罠を糾弾して、あるべき宗教を問いただし、その結果として彼は法華経の久遠実成の仏に至ったのであった。日蓮が単なる悪口に終わっていたならば新しく創造された宗教としての日蓮宗は成立しなかったであろうと私は思う。
彼の「南無妙法蓮華経」は‘南無如是仏’だと私は読む。なぜなら法華経は‘諸法実相’という如是を説き、それが久遠実成だとするからである。法華経には迫害に対して遠くからでも合掌する菩薩の話や焼身供養の話もあってキリスト教の‘地の塩’とよく似たニュアンスがあって、不退転の自己犠牲的精神が日蓮の正確とあっていたこともあって法華経を尊ぶったのであろう。
ぜったい他力を、全身全霊を投げ入れるとするならばすべての根本宗教は絶対他力である。看話禅も公案に全身全霊を投げ込んで参究するものである。思いきわまったとき、すべてから解放される。絶対他力の世界である。易行道といわれる念仏こそある意味ではもっともむずかしい絶対他力の道となることがある。自分のはからいを捨てて念仏に投げ込むとはどういうことなのであろうか。なんらかのいろどりをつければそれは助べえ根性を起こしたということであって道から外れる。願いとか希望だけでなく報恩感謝もいろどりのはずである。なぜなら思いをいれているからである。一切の思いを捨てて念仏に投げ込む、それこそ証空のいう‘白木の念仏’でなければならないということである。純粋にただ念仏する、それこそが観音経のいう「一心称名」ということでもあるのではないだろうか。私は前章で「一心称名」とは観世音菩薩と一体となることだといった。観世音菩薩と一体になるということは自由自在たる真実者となることだということだと述べた。すなわち‘空’であり‘諸法実相’そのものになるということである。絶対他力の念仏は一心念仏でなければならず、それは純粋にただ念仏するだけであり、そこに永遠の真実者たる弥陀との一体が実現できる。その実現した世界はそれはそれでよしという如是の世界である。その如是は通念概念思い込みを離れた自由自在者である。念仏の世界でいう妙好人はまさしく如是たる自由自在者である。そこではじめて人々は苦悩が観念やしがらみ、思い込みとそれへの執着という囚われによって生じていることに気づいて広い世界に解き放たれるということである。
念仏にしろ坐禅にしろ祈りにしろなんのいろどりもつけずに純粋に行うことこそが肝要であり急所である。つまり絶対他力の念仏、絶対他力の坐禅、絶対他力の祈りでない限り、真実者には至ることはできないということである。

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