/ 97.来世はあるのか?
来世という観念は宗教において重要視されているようである。キリスト教やイスラム教では、死んでのちに神から最後の審判を受けて、生前によい行いを積んだ人は天国に昇るとされる。そうでない人は地獄に堕ちるという。仏教には、どんな行いをしたかによって死んで後に生まれ変わって生きる来世の人生が決まるという考えがある。死んでもその人自身の本質(霊魂とか魂とかによく形容されるもの)は滅びることなく延々と続いていく考えのようだ。
私は、ある意味では来世は存在しないとし、別の意味では存在すると思っている。
まず、ある意味では来世はない理由を述べよう。
生あるものはいつか死を迎える。これは生物だけでなく、地球も太陽も、ひいては宇宙もそうだと化学は観察研究から推測する。そして私たち人間も肉体とともに思いも死んでいく。私は、‘霊魂’とか‘魂’を‘思い’とみなしている。土葬されれば土に帰ることであり、火葬されれば煙と骨となって、その骨もついには土に帰る。その人は生まれ変わることもなく、したがって来世もなく、それで終わりだと思っている。
仏教には「不生不滅」という言葉がある。‘はじめもなく、おわりもない’とわかりやすく口語訳されることがある。これは、永遠不滅の実体という固定したものはないということを言っている。つまり、「諸行無常 諸法無我」ゆえに、「空」ゆえに、生まれる実体はなく、死滅する実体もないということである。したがって、霊魂とか魂という実体もなく、すべてが「空」なるものとして転変流転するということである。霊魂とか魂を論じる仏教者は仏教をないがしろにしていると私は思う。
釈尊は、来世のことは行ったことがないからわからない、それよりも今、体に刺さっている毒矢(煩悩のこと)を一刻も早く抜かないと全身に毒が回って大変なことになると諭した。今現に生きている自分を苦悩から解放することに全力しなさいと説いているように思う。
しかし、別の意味では、来世はあると考える。それは、あとに残された存在や未来への影響という意味である。
釈尊は来る未来という来世のために仏教を残したということである。そのおかげで私は仏教徒となることができた。また、現在の私たちが大量発生させている二酸化炭素が地球温暖化を促しているだけでなく、私たち世代なきあとの未来の世代にも大きな影響をもたらすであろうことを警告されている。
このように、私たちははるか以前の過去から影響を受け、そして未来にも影響を及ぼす行為をしているということだ。綿々と続く生命の営みの中で、いま私たちがあり、そしてこれから続いていくであろう生命へ橋渡しをしていく。どういう未来を作っていくのか、未来という来世に私たちは大きな責任を持っていることを認識する必要があるように思う。
仏教指導者とされる‘法王’の死と同時に生まれた赤子にその‘法王’の魂が移ってその赤子が次の‘法王’になるとしている仏教の一派があるが、荒唐無稽としか言いようがないと私は思う。そもそも魂を実体視していることにすでに仏教からはみ出してしまっていると言わざるをえまい。そして、‘法王’というのも私には気にくわない。‘仏を殺し、祖師を殺して・・・はじめて解脱を得る’という臨済義玄の「殺仏殺祖」を味わいたいと思う。

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