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20.黙照禅について
黙照禅(もくしょうぜん)は南宋時代の12世紀前半に活躍した宏智正覚(わんししょうがく)の坐禅のやり方で、思慮分別をやめて黙々と坐禅することだとされる。臨済宗の公案という禅問答を使った看話禅(かんなぜん)に対して用いられている。日本では道元の只管打坐を宗是とする曹洞宗の坐禅を指さすものとして使われている。
私にとっては黙照禅であろうと看話禅であろうと、いな禅に限らず祈りや念仏、唱題、遍路であろうと手段はなんでもよいという立場であるが、大切なことは徹底するということである。ともあれ、曹洞宗の僧侶として出家した私は実際に黙照禅という坐禅を日常生活の一貫として行っているので、黙照禅とはいかなるものなのか私なりに解説してみようと思う。
黙照禅はまさしく黙々と坐禅するのであるが、妄想や考え事に陥りやすい問題がある。私もよく妄想や考え事にいつの間にか取りつかれて居眠りをこいてむなしく時間ばかりが過ぎ、そのことを言い訳するかのようにトータルで何時間坐禅したのかと算段することがあった。
道元は「普勧坐禅儀」で「諸縁を放捨して万事を休息し、善悪を思わず是非を管することなかれ。心意識の運転をやめ念相観の測量(しきりょう)をやめて作仏を図ることなかれ。・・・兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)してこの不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん、非思量なり。これすなわち坐禅の要術なり。」といっている。‘仕事とか家庭とか用事とかなどいろいろな所縁を横に置いといて、良い悪いの分別をやめ、心になにかを観相することなく、考え事をしないという道理を考えよ。考え事をしない道理を考えよとはどういうことか、それは考え事ではないということだ。これが坐禅のポイントだ。’といっているのであるが、私には長い間、考え事をしない、ということがわからなかった。20年ほど前の広島の少林窟道場に参禅してやっと考え事から解放された。少林窟道場では‘一息一捻り’といって、一息の吸う過程を丁寧に感じて吸い、吐くときは吐く過程を丁寧に感じながら吐いて、その一呼吸の動作が終わったら腰をっゆっくり左右に捻るのである。その腰を捻るときも捻っていくすべての過程を丁寧に感じながらおこなうということである。要は‘一息一捻り’によって考え事をするスキを与えないということである。私はこのおかげで普通の坐禅のままで考え事をしないことができるようになった。居眠りからももかいほうされたのであった。
黙照禅にたって考えるならば、頭の中になんらかの思いや考えが出たときすぐに考え事をしていると気づいてあるべき坐禅の姿勢になっているか坐相を点検して坐相を正すということである。ある人は思いが出たら出たままで相手にしないで坐ることだといっている。また、思いを手放しすることだといっている人がいるが、いくら心で手放ししようとしても手放ししづらい経験を私はもったことがある。心を心でもって制するのは並大抵ではないと私は体験から感じる。思いに対して心で相手にしないとか心でもって手放しするとかではなくて、坐相でもって相手にしなくなり、手放しできるといわなければならないはずである。言い換えれば坐相という身体感覚を絶えず感じよということである。少林窟道場では呼吸と腰の捻り動作という身体感覚を絶えず感覚することで思いを相手にせず思いから自然と解き放たれて坐を坐として現成(げんじょう)している。黙照禅は看話禅と違って徹底した身体感覚への回帰が問われ続けられているということである。
前章でも触れたが、草薙龍瞬の坐禅はなんらかの身体感覚に心を常に置いてそこからまったく外さないようにするというやり方である。呼吸に心を置くならば、吸うときは吸う息の流れを鼻の粘膜に感じながら吸い、吐くときは吐く息の流れを同じく鼻の粘膜に感じながら吐く、ということである。呼吸する際の下腹のふくらみやへこみをゆっくりしながらふくらみへこみの過程を丁寧に感じながら坐ることでもよいという。疲れたら手をゆっくり挙げて体のこわばりをゆるめてもよいがその際も挙手している動作にすげて心を置くと指導された。まさしく少林窟道場の‘一息一捻り’とまったく同じスタンスである。
黙照禅をなんらかの身体感覚を隙間なく絶えず感じながら行う坐禅とするならば、坐相を正して坐るいわゆる坐禅のときだけでなく、日常生活全般にわたって今行っていることに心を置くということに展開される。食事のときは食事、掃除のときは掃除、用を足すときは用を足し、歩きは歩きに、仕事は仕事に、睡眠は睡眠に、ということである。永嘉(ようか)大師の「証道歌」の‘語黙動静安然’である。わかりやすく単的にいえば‘脚下照顧’である。禅語的にむずかしくいえば‘現成公案’である。
黙照禅では‘外寂に内動くは・・・’(宝鏡三昧)になってはいまいか、厳しく問われ続けられている。そこを少しでもないがしろしたとき、宏智正覚のライバルと称された看話禅の大家、大慧宗杲(だいえ そうこう、だいえ しゅうこう)に批判されるように‘黙照邪禅’に陥ってしまう。
公案を使って参究する禅である看話禅は、与えられた公案という禅問答を四六時中追求して本来の面目、すなわち悟ということであるが、その過程で思考構造・言語構造を破壊して通念概念思い込みから離れて自由自在なる世界を獲得しようとするものである。行き着くところは黙照禅と同じである。いや、宗教一般の目指すところとまったく同じであると私あ確信する。
どのようなやり方であれ、どんな言い回しであれ、根本宗教の目的は狭い視野から解き放たれてもっと広い宇宙的視野からものごとを見ることができるようにするということである。それが‘救い’であり‘復活’であり‘天国に召される’であり‘悟り’であり‘往生’であり‘神と一体となる’である。
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