39.過去の‘栄光’に取り憑かれた人に思う  神谷湛然 記

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  39.過去の‘栄光’に取り憑かれた人に思う

 ‘祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりあり。おごれるもの久しからず、ただ春の夢のごとし。’

 平家物語の有名な書き出し文である。平安時代末期に流行った末法思想の影響を受けてか、厭世観のにじむ文章になっている感じは否めない。それを、私は本来仏教がもっている生命力溢れる思想に立てば、以下のように言い直されるかもしれない。

 ‘祇園精舎の鐘の声、万物流転して瞬瞬刻刻として新たな響きあり。沙羅双樹の花の色、それはそれとしてそれあるなり。栄光はいつまであることなし、前後裁断して今のみあるなり。「春は花 夏ほととぎす 秋もみじ 冬ゆきさえて すずしかりけり」(道元禅師)。’

 えらく、恰好つけてしまったが、要は今にこそ生命があることを言いたかったのである。だからといって、欲望の赴くままにハチャメチャしてよいとはいっていない。その欲望のツケを自分が100%背負って閻魔さまから地獄の苦しみを受ける覚悟があるなら話は別だが。
 過去の‘栄光’に取り憑かれた人の悲しい話をよく聞く。モーパッサンは「女の一生」で貴族生活を忘れられない女主人公の哀れを描き、ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」で没落する貴族の過去への執着ぶりをこと細かくリアルに描き出している。
 先日、ヤフーニュースを眺めていたら、NHKの朝ドラにも出演したことのある女優さんの自分の忌まわしい過去の話があった。若いころ新派の女優で美形だった母親は、飲む・打つ・買うの夫に嫌気がさして離婚して落ちぶれて田舎に出戻り、旅館の仲居や居酒屋の女将の仕事をしつつ、家に帰るとまだ小さい子供だった兄と妹の本人に殴る・蹴るの暴行を日常的にはたらき、本人は時には息ができないくらいになったこともあったという。そして母親は男優写真と新聞の切り抜き記事を眺めてはかっての夫と自分の境遇にウラミ・ツラミを吐き出していたという。暴行暴言することで自分の鬱憤を晴らしていたのだろうとその女優はいう。大きくなって東京へ上京した兄が盗みを働いて家に出戻ってくると、兄は力関係が逆転して弱くなった母親に対して常習的に暴力をふるうようになり、‘こんなに好きなのにわからないのか’と母親に怒鳴りながら殴ったという。母からの愛情に飢えていたのだろうと女優はいう。後日、兄は結婚相手を家に連れてくるが、その女性はよわよわしくてなんでもいうことを聞いてくれる人と一見してわかったと女優はいう。しかもその女性の名前は母親と同じだったという。兄は自分の家族に対してもよく暴行していたという。女優は地元の高校を卒業後すぐ、女優を目指して上京したという。
 痛々しい告白である。かっての晴れやかな‘栄光’を失って今を呪い、阿修羅のごとく暴れ回る様は、すでに亡くなった私の父のありさまと二重写しに私の瞼に浮かぶ。女優の兄の暴行癖は母親からの因果応報であろうか。愛情も与えられることなく虐待された子供は暴力的になりやすいことが指摘されている。しかし、過度の甘やかしも自己統制のきかない放縦に陥りやすいこともいわれているが。子は親の鏡とはよくいったものである。
 20年足らず前に亡くなった私の父のことについて述べようと思う。
 父は昭和になったばかりの頃に村一番の裕福といわれた庄屋に長男として生まれた。父の父である祖父は大政翼賛会の村の会長をしていたらしい。祖父は暴君だったためか父の母は戦中に40歳手前で病死したと聞く。戦後、農地解放と資産没収、公職追放令によって家は没落し始める中で、戦後まもなくして隣村から私の母が家による見合い結婚でやってきて第一子が生まれる直前に祖父は病死したと聞く。祖父は、戦後の家の没落と私の父とその姉の子供たちとの折り合いの悪さからのストレスとわびしさを解消するためだろうか、隣町の飲み屋で知り合った女性を妾に入れていたらしい。祖父の死後、家督となった父は農業をはじめ、所有していた広い茶畑を土台にして茶工場を起こして茶の自家製生産を展開した。資金はまだ残っていた広大な山と田畑であった。日本のアメリカナイズ文化の進展とともに茶の需要は低迷して昭和39年の東京オリンピック前に茶工場を閉じた。そして大量の借金を抱え込み、親戚からの資金援助や山などの売却などして急場をしのいだらしい。それ以降は広い離れ家屋を利用して名阪国道建設作業人夫の人たちへの宿泊場所の提供による家賃や70年大阪万博以降ブームとなったゴルフ建設にからむ土地買収に関わったりなどして収入を得ていたが、その当時雨後の筍のごとく跋扈していたサラ金にあちこち手を出して首が回らなくなって昭和50年代前半に田舎の家は人の手に渡った。その頃、母は別居して名古屋の病院の家政婦の仕事につき、父は土木作業員や警備員などの仕事をして生活していたらしい。サラ金の借金は弁護士さんの尽力もあって少なくしてもらった負債額を日々の働きから少しづつ返して完済したと聞いている。
 よくある没落家族の話ではあるが、問題は、戦前の家の‘栄光’から離れることができず、御曹司のごとく偉ぶってまわりの人々を蔑視し、境遇への不満を酒と母への暴力で鬱憤を晴らしていたということである。私の子供のころに残る父のイメージは酒で酔いつぶれた姿と母にふるう暴力が強い。町に連れてもらったり、村で一番早く当時高額だった白黒テレビを買って見せたり、町からおいしい大きなクリスマスケーキを買ってもらったり・・・などもあったが、マイナスイメージが私にはどうしても強く浮かぶ。‘神谷家はそこらのもんとは違うのや。お前は神谷家の子ではないわ。’と父から腹いせによくいわれたものである。家を失って名古屋で父と一緒に住んでいた時、路頭で酔いつぶれた父をアパートまで連れて下さった三人の学生さんをよどんだ目で、迎えに表に出た私に差し示して‘こいつら、アホ大の○○大のやつらや!’と言い放ったことばは今でも覚えている。学生さんたちは苦笑いして会釈して穏やかに失礼された姿にこちらこそ恥ずかしくなって恐縮した次第であった。エスカレートする父の悪酒癖に、母は父が50代なかばの時に断酒のためにとある精神病院に強制入院させた。父は一年後に退院してからは酒が口にできなくなってこれまでの暴行・暴言・暴癖は失せて穏やかになって警備員しながら80歳まで生きれたものであった。父が亡くなったあと、母は‘あの人はいつまでも昔のことが忘れることのできないボンボンだった。’と述懐している。
 私にも過去の‘肩書き’に懐かしむ心は否定できない。自分の‘空虚な’人生を埋めるために、過去の‘栄光’や子・親・親族などの‘肩書き’や‘勲章’を引き合いに出して自慢するありさまをよく目にする。過去の‘栄光’や人のフンドシで自らを飾り立てようとするのは人間の性(さが)であろうか。
 戦前からの名門企業の凋落のニュースもよく聞く。東芝の上場廃止のニュースはついにここまで来たか、という思いである。老舗だからといって安閑できる時代はとっくに終わっているとある識者はいう。しかし、古い伝統を売りにして成功しているところもあることを聞く。使い捨てではない繰り返して使えるという、創業100年のハクキンカイロは環境に優しく、安全で低燃費で24時間暖かいということで、とくにヨーロッパで大人気だそうである。‘中将湯(ちゅうじょうとう)’という婦人薬で明治中期に創業したツムラは今や豊富な種の漢方薬と入浴剤のバスクリンで根強い需要をもっている。
 移り行く時代のなかで、どのようにして生きていくのか、絶えることのない努力と研鑽、真摯な態度が裏打ちされていると思う。
 あの頃はあの頃で終わりである。仕事に貴賤はないはずである。一流の仲居さんのおもてなしは訪日外国人たちを唸らさせ、一流の居酒屋となって成功した人がいる。スナックのママから有名な売れっ子作詞家になった人もいる。‘今’にどっしりと身を置いてそこから自分を展開しようとする人の生きざまはいつでもまばゆいものである。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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