52.‘生身のいのち’とフランシスコ・ザビエル  神谷湛然 記

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  52.‘生身のいのち’とフランシスコ・ザビエル  神谷湛然 記

 「正法眼蔵」‘現成公案’、「普勧坐禅儀」、「証道歌」を私は意訳するとき、‘生身のいのち’という言葉をキーワードとして多用している。禅宗とか仏教の枠を越えてキリスト教やイスラム教などにも適用できる根本宗教の経典として位置づけたものだった。したがって、‘生身のいのち’を仏とかゼウスとかアラーとか道とかまたはいわゆる神とか光などと言い換えても構わないと思っている。
 また、‘外道’という意味を、‘生身のいのちを知らず、生身のいのちを説かない教え’と解釈している。このことは、仏教であっても、生身のいのちを知らず、生身のいのちを説かない輩は‘外道’ということになる。
 ‘生身のいのち’とは、私たち生命や地球、太陽、星々など一切の宇宙万物を成り立させているものとしている。‘生身’ということばを入れたのは、ダイナミックな万物転変のありようを表現しようと思ったからだった。では、‘生身のいのち’は宇宙の奥深いところにあると思う人がいるかもしれない。実は身近なところにも私たち自身にも一切の宇宙万物にあるのである。一塵にも小さな一つの毛穴にも大宇宙と同じく‘生身のいのち’の姿であることを‘仏国土’という言葉でもって仏典でも説かれている。
 1549年に来日して日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルという宣教師がいた。ある縁でザビエルを詳しく知りたいと思って何冊かのザビエル関連書籍を読んだ。聖人君子のように描いたものから人間の弱さをも描いて聖俗併せ持つ姿を描いたもの、被支配者や差別された人たちへの救済に捧げた姿を描いたもの、ポルトガルのアジア植民地政策とのはざまで苦悩する姿を描いたものなど著者によってザビエル像がいろいろ違うのを興味持って読んだ。ただ一つ共通したのは、民衆と同じ目線で神の前での一切平等を説いたことであった。虐げられた人や女性、差別された人にも積極的に布教し、不治の病とされたライ病患者も含めて病んだ人たちを介抱し、死者にはそばに侍って冥福を祈った。神ゼウスに全身を捧げる姿があった。唾を顔に吐き捨てられたり、石を投げられたり、罵られたいされながらも、神の救いを説いた姿は、まさしく法華経にある常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の話を思い浮かべる。常不軽菩薩は、出家であれ在家であれ、男であれ女であれ、どんな人にも近づいて、‘私はあなたがたを軽んじません、なぜならあなたがたは仏になる身ですから’と言って礼拝し、罵られ、石を投げられ、杖でたたかれても逃げながらもそれでも遠くから礼拝合掌したという話である。「私はあなたがたを深く敬います。あなたがたをけっして軽んじず、あなどることをいたしません。あなたがたは皆、菩薩道を行じて仏になることができるのですから」と。常不軽菩薩は説教や誦経をするぽとなく、ただ一人一人に誰でも礼拝してこのように言葉をかけることだけだったという。この話は、釈尊がカースト打破を掲げて一切衆生の救いを説いた精神そのものといえよう。そして、仏を‘生身のいのち’と解したとき、常不軽菩薩はザビエルと一枚に重なるのを私は強く思うのである。
 しかし、なぜ仏教が根付いていたはずの日本の戦国時代に、ザビエルの伝えたキリスト教が遼原に火が燃え広がるように急速に広がって信者が増えたのだろうか。領主や為政者が布教許可と引き換えにヨーロッパからの鉄砲などのすぐれた武器や技術・知識を仕入れて‘富国強兵’を図ろうとした政略もあったであろうが、それでも被支配者の下層民衆に多くの受洗者が生まれたことを私は深く思わざるをえない。16世紀末から17世紀初頭には20万人から40万人とも50万人ともいわれるキリスト教信者がいたとされ(75万人という説もある)、当時の総人口が1200万人ないし2200万人といわれれ、その総人口の2%から4%がキリシタン信者であったことを考えると無視できない大きな割合である。信教の自自由が保障されている現在日本でさえ総人口の1.5%の192万人(2017年文化庁調べ)ほどといわれているから、当時のキリスト教の普及ぶりが伺える。
 私は、その理由を、キリスト教が仏教よりすぐれているということではなくて、仏教指導者たちが釈尊の真髄を自分のものとして肉体化できていなかった証しではないだろうかと私は思うのである。ただ単に経典の言句やすぐれた先人たちの言葉の物真似でしか過ぎなかったことにあるように思える。それに反して、当時のキリスト教布教師たちは街角や路頭などに積極的に出かけて民衆と同じ目線で差別なく誰にでも悔い改めば神に救われると説いた。疑問にも逃げることなく応え、言行一致を心がけていたように思える。仏教のすぐれた先人たちもそうであった。法然や親鸞、日蓮、一遍、道元、一休、蓮如など彼らの跡形を辿れば明白である。けれども、彼らから引き継いだ人たちは時代が下るに従がって教条主義化し、教えの生命は失われていった。古今東西に関わらず、既成宗教化してドグマと物真似に陥ってしまうのは世の常であろうか。
 ザビエルは、マルチン・ルターやカルビンのプロテスタントによる宗教改革運動の潮流のなかで、イエズス会メンバーとしてカトリックの立場から原点に帰ってイエスの生涯を自分自身も歩んで行動しようとした。ザビエルはもともとはアリストテレス哲学の学者になるつもりであったが、のちにイエズス会創設のリーダーとなったイグナティウス・デ・ロヨラから‘世界のすべてを手に入れたとしても、命を失ってしまえば何の得があろうか’というマタイ伝のことばを言われたのが大きな転機だったといわれる。母や姉・兄が次々と亡くなって末っ子であったザビエルだけが残されたという家族の境遇も影響しているようでもあろう。ザビエルは自分の魂を救うためにイエズス会に参加したと思う。そして、そのためには自分がイエスと同じように行動実践しようとした。これがインドのスラム街や部落、マルク諸島での山奥の現住民部落、日本での下層民衆への積極的な布教活動となったといえる。
 しかしながら、ザビエルやトヨラ無きあとのイエズス会は神社仏閣破壊を煽り、ヨーロッパ使用の生活スタイルを持ち出つようになり、しまいには武力による日本制服論まで現れたことを指摘している学者がいる。当初はキリスト教に寛容で宣教師や有力信者と深く交流のあった豊臣秀吉が1587年にバテレン追放令を出したきっかけは、九州遠征に赴いた時にキリシタン大名であった有馬晴信から教会に無償で割譲されていた長崎が教会の要塞と化したありさまを目にしてポルトガルやスペインが日本を植民地しようとしているのではないかと恐れたからだといわれている。実際に、そのころ台湾はポルトガルによって植民地化とされたばかりであった。のちの徳川幕府による禁教令と苛烈なキリシタン弾圧は、為政者の立場からすれば当然だったかもしれない。ヨーロッパ列強による植民地政策がキリスト教布教と一体化していた事実があった。ザビエル自身もポルトガル国王からの養成を受けて国王からの資金援助によって布教活動が展開されたことは否めない事実がある。それでもザビエルの偉大なところは、インドであれ、マルク諸島であれ、日本であれ、その国の名も知らぬ民衆に対して分け隔てなく彼らと同じ目線で接したことであった。そして、ザビエルは地の塩として報いを求めることなく神に全身全霊を捧げて死の恐怖にもめげずに立ち向かったことであった。私の読んだ本に引用されていたザビエル書簡集のなかに、‘私は神に何の報いも求めません、すべてを神の思し召しのままに任せるだけです’ということばがある。道元の‘仏のいえになげいれて’や親鸞の‘弥陀の本願にまかせるしか救われる道なし’とまったく同じことであったことである。ザビエルも絶対他力だということである。その絶対他力とは、絶対者である‘生身のいのち’にすべてをゆだねるということである。
 煩悩無尽の私たちではあるが、煩悩が悪いのではなく、煩悩に突き動かされるのが悪いのであることを先人たちはいっている。煩悩を持つのは人間だけだといわれる。人間以外の生命はほとんど自然の本能のままに生きているといえよう。人間はその本能を越えて必要以上のものを欲望して食べ過ぎ飲みすぎ、資源を浪費し、そして征服欲・独占欲のなれの果てが核爆弾となったのではないだろうか。いったい、誰のおかげで生きていられるのか、私たちは頭をまっさらにして‘生身のいのち’に立ち帰る作業を繰り返すしかないように思う。

1957年奈良県生まれ。1981年3月名古屋大学文学部卒。書店勤務ののち、1988年兵庫県浜坂町久斗山の曹洞宗安泰寺にて得度。視覚に障害を患い1996年から和歌山盲学校と筑波技術短期大学にて5年間、鍼灸マッサージを学ぶ。横浜市の鍼灸治療院、訪問マッサージ専門店勤務を経て、2021年より大阪市在住。
 仏教に限らず、宗教全般・人間存在・社会・文化・政治経済など幅広い分野にわたって配信しようと思っています。
このブログによって読者のみなさまの人生になんらかのお役に立てれば幸いです。
         神谷湛然 合掌。

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