/ 64.教育勅語に思う
今日は建国記念日(2025年2月11日)。戦前の起源説である。神武天皇が国をつくった日とされている。古代史を読み漁った私からすれば疑問の多いところである。それはともかく、この日にちなんで、戦前天皇にゆかりの深い教育勅語について考えてみたいと思う。
ます、原文と現代語訳を太郎次郎社エディタスのサイトから抜粋させていただいて以下に記す。
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原文 (漢字は常用漢字にあらため、現代かな遣いによるルビと句読点を付している。)
朕ちん惟おもフニ、我わカ皇祖こうそ皇宗こうそう、国くにヲ肇はじムルコト宏遠こうえんニ、徳とくヲ樹たツルコト深厚しんこうナリ。我わカ臣民しんみん、克よク忠ちゅうニ克よク孝こうニ、億兆おくちょう心こころヲ一いつニシテ、世世厥よよそノ美びヲ済なセルハ、此そレ我わカ国体こくたいノ精華せいかニシテ、教育きょういくノ淵源亦実えんげんまたじつニ此ここニ存そんス。爾なんじ臣民しんみん、父母ふぼニ孝こうニ、兄弟けいていニ友ゆうニ、夫婦ふうふ相和あいわシ、朋友ほうゆう相信あいしんシ、恭倹きょうけん己おのレヲ持じシ、博愛はくあい衆しゅうニ及およホシ、学がくヲ修おさメ業ぎょうヲ習ならヒ、以もっテ智ちヲ能よク啓発けいはつシ徳器とっきヲ成就じょうじゅシ、進すすんテ公益こうえきヲ広ひろメ世務せいむヲ開ひらキ、常つねニ国憲こっけんヲ重おもんシ国法こくほうニ遵したがヒ、一旦緩いったんかん急きゅうアレハ義ぎニ勇公ゆうこうニ奉ほうシ、以もっテ天壌てんじょう無窮むきゅうノ皇運こううんヲ扶翼ふよくスヘシ。是かくノ如ごとキハ、独ひとリ朕ちんカが忠良ちゅうりょうノ臣民しんみんタルノミナラス、又以またもっテ爾なんじ祖先そせんノ遺風いふうヲ顕彰けんしょうスルニ足たラン。斯こノ道みちハ、実じつニ我わカ皇祖こうそ皇宗こうそうノ遺訓いくんニシテ、子孫臣民しそんしんみんノ倶ともニ遵守じゅんしゅスヘキ所ところ、之これヲ古今ここんニ通つうシテ謬あやまラス、之これヲ中外ちゅうがいニ施ほどこシテ悖もとラス。朕ちん爾なんじ臣民しんみんト倶ともニ拳拳服膺けんけんふくようシテ、咸其徳みなそのとくヲ一いつニセンコトヲ庶幾こいねがフ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽
現代語訳(高橋陽一)
天皇である私が思うのは、私の祖先である神々や歴代天皇が、この国を始めたのは広く遠いことであり、道徳を樹立したのは深く厚いことである。我が臣民は、よく忠であり、よく孝であり、皆が心を一つにして、代々その美風をつくりあげてきたことは、これは我が国体の華々しいところであり、教育の根源もまた実にここにあるのだ。汝ら臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友人は互いに信じあい、恭しく己を保ち、博愛をみんなに施し、学問を修め実業を習い、そうして知能を発達させ道徳性を完成させ、更に進んでは公共の利益を広めて世の中の事業を興し、常に国の憲法を尊重して国の法律に従い、非常事態のときには大義に勇気をふるって国家につくし、そうして天と地とともに無限に続く皇室の運命を翼賛すべきである。こうしたことは、ただ天皇である私の忠実で順良な臣民であるだけではなく、またそうして汝らの祖先の遺した美風を顕彰することにもなるであろう。
ここに示した道徳は、実に私の祖先である神々や歴代天皇の遺した教訓であり、天皇の子孫も臣民もともに守り従うべきところであり、これを現在と過去を通して誤謬はなく、これを国の内外に適用しても間違いはない。天皇である私は、汝ら臣民とともにしっかりと体得して、みんなでその道徳を一つにすることを期待するものである。
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前半は、親孝行とか兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友は信じ合い、博愛を皆に施し、己を謙虚にして、学問に励み、道徳を修めて、公共の利益のためにつくし、事業を興して常に国の法律を守ることを言っている。当たり前のことを言っているようで、タテ社会を重んじる儒教色が濃く、個人の尊厳を重んじる考え(仏教も然りと私はみる)からすれば‘?’と思うところがある。問題は後半である。
‘一旦緩急あれば義に勇公に奉じ、以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし。’、これが教育勅語の本質と私は思う。この言葉を私ないに訳したい。
‘非常事態がおこったならば、忠義に勇ましく公(即ち国家)に身を捧げて奉仕し、もって、あめつち(天土)のはじめより、即ち世界のはじめより続く無窮の天皇の運命と一体となって命を捧げるべきである’。
教育勅語に一貫して流れるのは、忠君愛国だと思う。この勅語の前年の明治22年(1889年)に発布された大日本帝国憲法には、「天皇は神聖にして侵すべからず」とあり、軍は天皇の統帥権に属す、と規定される。つまい、天皇のために国を盛んにし、天皇に命を捧げて戦いなさいということだ。これが‘愛国’だと聞こえてくる。
聖徳太子が制定されたとされる十七条憲法には、「和をもって貴しとなす」とある。教育勅語はこれには及ばない低いレベルだと私は見る。なぜなら、天皇が上から目線で、国民を‘臣民’として天皇の下僕として天皇のために命を捧げるべきだとして、上下貴賤関係を持ち込んでいるからである。地位とか身分とか財産などに関係なく、国内外において、すべてが‘和をもって貴しとなす’こそが、国家だけでなく世界を平和に豊かにするのではないかとつくづく思うのである。
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